川北英隆のブログ

経済危機宣言の画一性

昨日、大臣の与謝野氏が「わが国はまさに経済危機とも言える状況だ」と国会で演説したという。本当なのか、まずは疑うことが肝要だろう。
日本経済が、流行りの言葉で表現すると、未曾有の状態にあることは確かである。前年の同じ時期と比べ、生産量が半減した企業はざらにあるだからだ。しかし、それを100年に一度の危機とか、まさに経済危機と表現することが正しいのだろうか。
まず、危機にふさわしい雰囲気に日本経済が包まれているのか。経済危機であれば、もっと殺伐とした雰囲気があって然るべきだろう。現実は、誰もが感じるように、都会の暗がりであっても怖さは少ない。公園での酔っ払いの叫びに脅かされるのが関の山だ。
また、与謝野氏が危機を声高に演説したのには、党利党略がありうる。危機にふさわしい大型補正予算を早期に成立させる目的が見え隠れしている。100年に一度と公言したアメリカの政府関係者のスタンスに似ている。小さな経済の波ならともかく、超特大の波だから、緊急避難的な予算措置を講じるべきだとの主張である。今回の景気後退のスピードと幅が巨大であとの判断に同意するものの、だから大型予算を組んで財政政策で徹底抗戦すべきだとの見方は飛躍だろう。どう転んでも半年以内に実施される衆議院議員選挙対策的な、資金量で選挙を乗り切る姿勢さえ感じられる。
ある事象を見て判断するには、客観性が求められる。この点、官公庁が密集している関東地区から客観性は逃げ出しやすい。官公庁が集中しているから、どうしても政策寄りの評価に陥りがちである。一方、関西では政策に迎合する必然性がないし、迎合したところでいいことがない。
現在の京都は「偉大な地方」である。偉大な最大の理由は、世代が若いことにある。学生の街だからである。偉大だから、客観的に、あるときには東京に所在する政府を批判的に評価する。この京都の例を敷衍すれば、多様な価値観を保ってこそ、社会の活力が保たれる。東京的な発想と制度を無批判に受け入れてはだめである。多様な発想と評価と行動が、最終的には日本の活力の源泉となる。
しかし、現実はどうだろうか。経済活動にしろ、文化にしろ、教育にしろ、多様性がなりつつある。むしろ、画一的な処理を強いて、多様性を消滅させるのが社会全体の流れだとさえ感じられる。京都の教育だけは、その画一性から逃れたいものだ。

2009/04/29


トップへ戻る