投資教育の必要性について議論していて気づいたのは、あまりにも短絡的、我田引水的な方法論が多いことである。これはまた、「投資」という用語に目を奪われた結果でもある。
必要なのは投資教育ではなく、金融に関する教育である。一般の国民にとって、日本銀行の役割でさえ十分に理解されているのだろうか。「お金を自由に印刷できるのが日銀だ」程度の理解だとすると心細いどころか、お先真っ暗である。
個人の金融資産がいくらあるのかは知っているだろうが、それが株式なのか、国債なのか、銀行預金なのか、それぞれがどの程度の割合を占めているのか理解できているだろうか。さらには、個人金融資産に対する銀行の役割とは何なのか、さらには銀行や証券取引所の社会的役割とは何なのか、ここまでくると正解率は(正解に近いものを含んでいいとして)ほとんどゼロになってしまうだろう。
大学生を連れて東京証券取引所を見学し、株式投資ゲームをやったことがある。東証には悪いが、噴飯ものだった。あんなもので投資教育ができると信じているとすれば、自己満足でしかない。証券市場に博打大好き人間だけを呼び寄せるにすぎず、真の意味での個人投資家を育てるどころではない。
投資教育とは、いきなり株式投資を教えることにはない。遠まわりかもしれないが、金融とは何か、その中での証券の位置づけとは、株式と債券の違いとは、そういうことを逐次説明することに教育がある。こう書けば、それが業界の仕事でないことは明らかだろう。金融が重要だと位置づけるのなら、それは高校までの教育で一通り済ませるべき課題である。それが実質的にできていないから、いつまで経っても金融は虚業としか見られず、金融技術レベルにおいて、欧米は当然として、新興国にも劣ってしまうのである。
2009/05/15