差別になるというので新しい表現がいろいろと工夫されている。確かに従来の用語には蔑視的な色彩の強いものが多い。かといって、わけのわからない用語も乱発するのもどうなのか。しかも、年数が経てば新しい表現にもさまざまにニュアンスが付け加わる。
そもそも、言葉とは、これとあれとを区別することに役割がある。随筆読んで尊敬している(その前に本人に会っているのだが、失礼ながら特別の思いはなかった)今道友信氏は、「いわゆる差別語を、いわゆる差別語だとは思わない。差別しない語があるのか。認識は差別に始まり、定義は差別を目的とする」と書いている。私自身、そう思っていたので、この言葉に出会い、また同じ随筆で、「唖の雌の野良猫」との端的な表現を読んだとき、日本語の力を感じた。猫だから感動した面があるのかもしれないが、これは冗談。今道氏にとってこの猫が日々の生活の相手でる。だから、親近感を持って登場させている。
この随筆はアスペンクラブの機関誌に「古典への旅」と題して連載されていた。整理が悪いので、正確な年月はにわかには判明しない。
それに比べて、今日のニュースで、「泉佐野市が早期健全化団体になった」と報じられていたのには、「何のこっちゃ」と疑問に思った。財政が健全化したのかと一瞬思ったが、経済の常識から考えてそんなことはありえないわけだから。ニュースを続けて聞いていると、要するに不健全になったということであり、「そうやん」と納得した。
現在はニュースからして言葉の使い方が間違っている。細かいことは言わないつもりだが、言葉の常識として、早期健全化団体との表現は黒を白とみなす雰囲気がある。他にも同じような事例がたくさんあるだろう。
もっと言葉にメリハリを。日本語に力を。それを回避していると、議論さえできなくなってしまう。
2009/08/26