川北英隆のブログ

ユーロ問題に思う

正直なところ、ギリシャ問題は局地的な危機で終わるだろうと思っていた。しかし、今日のこの時点(5/7、23.30頃)の市場の反応を見ていると、相当恐怖感があるようだ。
ユーロは壮大な実験である。独立性の高い国という制度を維持したまま、実質的にはヨーロッパ圏経済を統合しようとしている。この実験は、発足後2007年まで、世界市場全体が順調だったことも手伝って大成功に見えた。アメリカのドルに対抗する通貨としてユーロの誕生が高く位置づけられた。
しかし、世界経済が後退するときの実験が済んでいなかった。その実験が2008年のリーマンショックで始まるや、欠陥が判明したと言えるだろう。ヨーロッパが触手を伸ばしていた東欧が行き詰まり、その火の粉がユーロの構成国にまで飛び散ったのが、今回のギリシャを初めとする問題だと表現できる。
2007年までの経済成長の恩恵とユーロ圏の影響力を受けた経済発展を、あたかも自国だけの手柄のように勘違いした国が続出したのである。最大の勘違いが放漫な財政である。そのような放漫な財政が持続可能かどうか、試算しなかったのだろうか。まあ、日本も他国のことをとやかく言えた柄ではないが、10年間程度も政府財政が、崩壊危機説にもかかわらず持ちこたえてきたことだけは自慢できる。
それはともあれ、ユーロとして、ギリシャや噂されている南欧の陽気な国々を破綻させられないのは確かだ。破綻させれば、それはユーロの崩壊を意味している。とはいえ、破綻させないためのコストは健全なドイツやフランスなどのコア諸国で負担しなければならない。「なぜ、宵越しのゼニを持たないような陽気な暮らしを好んでいる国々のために、爪に火を灯すような生活をしている我々が援助しなければならないのだ」という、キリギリスとアリの話のような不満が生じかねない。少なくともドイツ国民は不満たらたらだろう。キリギリスが反省し、キリギリスらしい生活から立ち直るとは到底思えない。そのように、多くの投資家が直感している。だからユーロが売られている。
いずれにせよ、価値観や生活態度、その延長線上にある制度の相当異なった国々が1つの通貨の下で暮らすのは難しい問題だ。

2010/05/08


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