川北英隆のブログ

公的年金とは1

公的年金をどうするのか、検討が延々と続いているものの、着地点が見えていない。年金がどうなるのか不明瞭であるから、国民の不安が募り、消費や投資も保守的になる。
現代の政治システムの最大の特徴は、といっても過去の政治システムをつぶさに分析したわけではないので単なる印象論だが、何か新しいことを実現すれば政治や政府の評価が高まることである。いわゆる「業績」とは、新しい政策の実行である。廃止することに業績という言葉は適切でないようだ。
経済が発展途上にある場合、この業績主義のシステムは有効に働くようにみえる。しかし、経済が成熟すれば、過去の業績の矛盾が明らかになってくる。さらには、将来に向かって業績を上げようとすれば、リソースが不足しがちとなる。前者は、未来すなわち成熟段階において何を達成するのかの、最初からその設計図がなかったことに起因する。後者の事例は、新たな財政赤字を生み出す政策に象徴されている。
年金の問題に戻ると、社会保障の中での年金の位置づけが不明確である。健康保険、介護保険、公的病院施設、公的年金、企業年金、生活保護等、制度設計の段階において、社会福祉が全体として議論されたのだろうか。一番新しい介護保険制度を導入する時が議論のチャンスだったと思うが、制度が全体として議論されることはなかったと思う。
公的年金制度そのものは縮小段階にある。2000年代の初め、支給年金額が、現役時代の給与の6割水準から5割水準に縮小された。支給開始年齢も引き上げられた。それでも財源不足という悩みが続いている。民間保険会社であれば「倒産」であり「経営者の首が飛び」、下手をすれば「背任行為」を追及されそうな年金制度の縮小が、政府であれば許されるのは何故なのか。これは不思議な制度である。
それはともかく、公的年金制度のような「長期の約束」を誰も確実に果たせないことは明らかである。確実に果たせないのなら、約束したり期待をもたせたりしないことである。年金保険料の積み立て方式などという「約束を果たすための制度」も一種のまやかしである。まやかしというのは、それが大して役に立たなかったからであり、権益拡大のための道具に使われてきたからである。
国民に対して最低限の生活水準を保証する制度が必要なことは明らかである。しかし、このための制度として現存する公的年金が必要不可欠だとは誰も証明していない。社会福祉制度全体を議論すれば、「公的年金制度はもっと小さなものでいい」と結論づけられるだろう。

2010/07/23


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