今日は文句が続く。日経新聞の今日の朝刊にあったが、銀行の資産のうち、国債の比率が19%になったとのこと。前にも書いたが、銀行に国債投資してもらうくらいなら、個人で投資するのが筋だ。
銀行の本来の能力とは、資金を提供した先が倒産するのか、しないのかを評価することにある。国債の発行機関である国が倒産するにしても、銀行より後だろう。そうだとすれば、わざわざ銀行に預金として資金を預け、それでもって国債に投資してもらう理由はどこにもない。それなのに、現実は、要するに預金の2割が国債投資に向かっているわけで、異常である。
この事実はいろんな解釈を生み出す。
第一に、投資家、この場合は個人が臆病すぎるとの解釈である。とはいえ、デフレが進行している現在、利子がほとんどゼロに近くても、預金≒現金で資産価値を維持できるのなら大満足かもしれない。注意しなければならないのは、「円」という資金が世界的な価値を保つのかどうかである。円の価値は国内では不変だが、海外では大きく変化する。国際的に円の価値が下落すれば、個人は貧しくなってしまう。この点は個人の判断に委ねられている。
第二に、銀行の社会的役割に対する疑問である。国債に投資するのなら、ある意味、誰でもできる。では、わざわざコストを払ってまで(というのも、預金金利は市場金利よりも低く設定されているから)、銀行を利用する理由があるのかである。もっといえば、「少なくとも国が倒産するよりも以前に倒産する銀行に個人が預金し、その銀行が国債に投資するのは、個人としてあえてリスクを犯す行為ではないのか」という疑問である。
第三に、銀行を仲介として、日本の国債の価値が維持されていることについてである。限界的には、最近では海外投資家が日本国債を買っている。しかし量はわずかにすぎない。日本国がギリシャ以上に大量の国債を発行しているにもかかわらず債券市場に混乱を招かないのは、個人が銀行に預金し、その資金が国債の購入に充当されているからである。国際に関する集金システムが確立しているからだともいえる。こんな集金システムがいつまで堅持されるのだろうか。機関投資家のストラテジストも、多くは金融機関に属しており、客観性に多少の疑問がある(ストラテジストの知り合いには、「あんたのことやおまへんで」と言っておこう)。
見方を変えると、影響力のある銀行は、何があろうとも徹底して国債を購入するだろうと思える。と書いて思い出したのだが、徹底して原子力発電所の安全性を伝道してきた国や電力会社があったことである。いずれ、それと同じ結末を迎え、神話が大崩壊しなければいいのだがと思ってしまう。
2011/07/02