川北英隆のブログ

ビルマの夕暮れ

でも、父親が亡くなって悲しくないのかと問われれば、寂しいとの返答になるだろう。でも、寂しいと感じたのはかなり以前のこと、1998年年末から99年年始に一緒にビルマを訪れた時だった。
山登りや出張で94年頃から海外によく行くようになっていた。それを実家で話していたから、1998年、父親が一度ビルマに連れて行けと要求した。父親は80歳だった。
父親の戦争体験(1939年-47年)で一番思い入れが深いのはビルマ(1943年-47年)らしい。中国にいた頃(1940年-43年)の日本はまだ負けていなかったが、ビルマからインパール(インド、マニプールの州都)に侵攻する作戦(1944年)は、食べ物もない中で完全な敗走となった。多数の戦死者(病死も多かったと聞く)が出たインパール作戦である。父親はコヒマ(インド、ナガランドの州都)で負傷し、命からがらマンダレー(ビルマ中部の中心都市)へ逃れた。コヒマの最初の戦闘で負傷したから少し早く落ち延びることができ、生きて日本に戻れたと言っていた。
父親は、そのビルマに慰霊のため少なくとも3回、コヒマとインパールには1回訪れている。しかし、慰霊に一緒に行っていた仲間が亡くなり、生きていても体力が落ちてしまい、ビルマ行きが成立しなくなったのだろう。
父親と父親の友人2人を引率してビルマに行った。現地では琵琶湖研究所の熊谷君(2010.9.28)の所で8年間働いたことがあるという美人ガイドのティンさんに案内してもらった。一応少人数催行のパック旅行になっていたので観光地も訪れたが、メインはマンダレー近郊のサガイン・ヒルにある奈良138連隊の慰霊塔(パゴダ)の訪問だった。観光の予定をカットしての特別手配である。現地でパゴダを管理してくれている尼さんを訪問し(留守だったのをティンさんに探し出してもらい)、パゴダで慰霊をした。
ヤンゴンからバンコク経由で日本に戻った。父親の友人のパスポート紛失事件(ホテルを出発する時にロビーで落とした事件)があったものの、ティンさんが慌ててホテルに戻ってパスポートを持ってきてくれ、無事に予定の飛行機に乗れた。
夕暮れだった。その時、父親がじっと窓の外を見つめていた。多分これが最後のビルマと思っていたのだろう。60歳頃から戦争の回顧録など物書きを続けていて動かなかったため、足腰が衰えていた。ビルマの旅行で、特にそれが目立った。そんな父親の姿が私にとって寂しかったのだ。同時に、かつての厳格でうるさかった父親の姿が心の中から消えた。ということで、先日の死去について「ある意味で目出度い」と思った次第だ。

2011/12/03


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