国際会計基準に対する疑問の続きである。疑問とは、要するに理想を徹底して追求しようとしているために、かえって陥穽に落ちてしまった事実である。
負債の時価評価を好意的に解釈すると、例えば社債について、投資家側の評価額と資金調達側の評価額を合わせることに目的がある。こうすることにより、社会全体として眺めた場合の「貸しと借り」の残高や評価損益が同額となり、バランスする。会計的に美しいと表現できるだろう。
しかし、工場設備や人的資源を含む無形資産(会計的な用語では自己創設のれん)を時価評価できなければ、肝心の企業自身の貸借対照表がバランスせず、パラドックスが生じるというか、企業の顔がピカソの美人画のようになる。誤解のないように書いておくと、オスロで見たピカソの絵は、他の並みある凡庸な絵(といっても、こちらには書けないし、家に1枚だけあれば素晴らしいもの)を圧倒し、光っていた。会計の場合、ピカソ的なものを見せられても凡人には理解できないし、そもそも会計は凡人のために工夫された情報処理手段だ。
それなら、自己創設のれんも時価評価すればいいのではと思える。しかし、自己創設のれんの評価は会計の範囲を超えているらしい。主観的というか見積りというか、そういう要素を多分に入れないと評価できないからだろう。とはいえ、会計的な見積りを従来以上にとり入れないと国際会計基準の試みは成立しない。たとえば、資産除却債務の額、経営者の意向を重視したセグメント情報、有価証券の投資目的などは、主観や見積りを多分に介在させないと会計処理できない。こう考えると、国際会計基準で要請されているものと、自己創設のれんの評価との違いは何なのか、ますます疑問が深まる。
僕とすれば、自己創設のれんを会計的に評価することは範囲を逸脱していると思っている。この点で異論はない。それなら、負債の時価評価全体をあっさりと諦めるべきである。そもそも、それを議論の俎上に載せたこと自体が間違っている。
また長くなった。もう1つの疑問は稿を改める。
2012/07/14