「あの人は真面目やし」という評価は、その人を褒めているだろうか。99%褒めているのだろう。しかし、たまには、真面目の上に2文字付けていたりする。日本人に対する評価も、その1%に近いかも。
辞書を引くと2つの意味が書いてある。1つは「真剣な態度」である。もう1つは「誠実なこと」である。前者はともかく、後者には「他人の目から見た評価」が明らかに入っている。前者も、多分に他人から見て「真剣な様子だ」との評価が加わっていそうだ。
第三者が「真面目にやれ」と批判することが象徴的だろう。「お前は傍から見ていて真剣さが不足している」、だから「真面目にやれ」との批判になったと思える。
この真面目さは、社会的には「一般に期待されていることを、期待されている通りに行うこと」となる。それがさらに高じると、地位や役職の高い者が期待するように行うこととなり、国や会社という組織(正確には、その時点におけるトップの意向)に忠実な行動となる。
発展途上の国であるのなら、そして組織のトップに優秀な官僚や企画人材がいるのなら、組織全体の真面目度が組織の発展につながろう。しかし、日本のように成熟した社会では真面目さは単なる愚直に近いのではと思える。つまり、過去の事例をこと細かに記憶し、それを再現しようとする秀才と、その秀才に従順に従う真面目なその他大勢だけでは、国や会社の発展はない。
真面目でないこととアホとは異なっている。本当の意味での真面目でない行動、言い換えると秀才ではなく天才(学問的な意味での天才ではない)の行動は、社会のためになることを、過去の事例や秀才が描いた(描きえた)道筋と異なった方法で行うことにある。かつての京都大学は、この意味での真面目でない人物を輩出してきた。1960年代の学生運動も同様である。
では、今はどうか。日本社会は気味が悪いくらいにルールで縛られ、そのルールの中で真面目に行動することが求められている。しかも、そのルールは、法律ではなく、暗黙の了解的なものが多い。加えて、その暗黙のルールを作る側は、他人にはルールを押し付けるのに、自分はルールの外にいるような振りをする。他人には厳しく、自分には緩やかというわけだ。見方を変えると、上下意識が変に高まっているのではと思えてしまう。誰とはこれ以上は言わないので、胸に手を当てて思い当たらないかどうか考えてみるべきだろう。
現在の京都大学も関西経済の凋落からか、もはや東京に対抗できなくなっている。学生の就職が象徴的かもしれない。就職のための時間的、金銭的コストから、東京の学生を羨むことになりがちだ。このため、真面目な学生の比率が多い。破天荒な行動をする学生が皆無とは言わないものの、どう見ても単純に社会性が欠けているだけのようだ。ひょっとして天才ではと思えるケースは皆無に近い(皆無と言うと問題なので?、すこし周囲を振り返りながら、このように書いておきたい)。
2013/10/23