6/17のブログで、機関投資家としてのスチュワードシップコード(委託者の資金を受託する姿勢)に関するメモを書いた。来週、さる投資家と議論する予定なので、もう少し現時点の考え方をまとめておく。
機関投資家が個人や企業などから資金運用を受託するのなら(たとえ受託契約に基づかなくても、それに準じて投資するのなら)、プロとしての役割を発揮しなければならない。委託者に忠実に、かつプロとしての技量に基づいて投資しないといけないわけだ。
手数料をもらって委託された資金を投資するわけだから当然だろう。この当然なことを実行していなかったのではないかと疑われたことから、スチュワードシップコードなる任意規定がイギリスで導入された。法的に強制されるわけでなく、オリンピックなどのスポーツ競技においてフェアプレーを宣言するのと同様、スチュワードシップコードを宣言することで、投資のプロとしての意識を再確認する意味がある。
日本の場合、「株価を上げるぞ」との政府の思惑が強すぎる。そんな政府の意識があること自体、フェアプレーというかそもそもプロの精神から外れてしまっており、自己矛盾に陥っているのだが、それは議論しないでおく。
スチュワードシップコードにはコストが求められる。プロの投資家としてプロを雇わないといけないわけだから、またスチュワードシップコードに基づいて投資しているのかどうかの確認も必要で、これらにコストがかかる。ほとんど何もせず、かえって親会社の利益になるような(もしくは親会社の不利益を回避しながら)投資していた似非プロにとっては頭の痛いことである。
次に問題になるのはプロとは何かである。今の機関投資家と、その構成員がプロなのかどうかである。この点について、毎度ながら1つ指摘しておきたいのは、市場の効率性を何も検証せず、投資理論だけを信奉してインデックス投資を行う「プロ」である。そんな似非プロには早く市場から退場してもらいたいものだと思う。市場から退場すべきかどうかの判断、これが究極のスチュワードシップコードではないのだろうか。この点は『「市場」ではなく「企業」を買う株式投資』を参照してほしい。コマーシャルでした。
スチュワードシップコードというと株主総会での議決権行使に注目が集まる。議決権行使も株主としての1つの権利であることは否定しない。しかし、毎回企業側の提案に対して「ノー」と言い続け、それが否定され続けるのであれば、マイナーな株式を保有する必然性が消滅する。残された手段は、経営権を取得しにいくか、大見栄を切って保有株を売るかのどちらかである。そこまでの覚悟がプロの投資家にあるのか。そのプロに投資を委託する者(たとえば年金)にも、その覚悟があるのかどうかが問われる。
最後に、スチュワードシップコードの現実の姿は一律でないはずである。プロにはプロとしての独自の方法があるはずだから、その方法を堂々と公表すればいい。議決権行使をしないのなら(プロとしてのインデックス運用がその典型だと思うが)、そう決めた理由を明らかにし、宣言すればいい。隣が何を宣言するのかを睨みながら、自分の方針を小出しするのでは、その出だしからしてプロとして失格である。
ということで、スチュワードシップコードは奥深い。当たり前のことが一番難しいのである。
2014/06/28