昨日の施餓鬼法要では食事を食べ終わった後、1時間半ほど時間があった。そこで寺の裏の外濠公園を歩いた。昔、堀といえば堀があった。佐保川の支流、秋篠川からか、取り入れた水も流れていた。
しかし、手入れがされていないから、厚い泥が溜まり、水の淀んだ場所は沼地になっていた。ヘドロの臭いもした。そんな中に(もちろん流れのある部分だが)金魚が流されてくるので、それをすくいに泥の中を歩いた記憶がある。子供心にも、さすがに躊躇したのだろう、何回も入ってはいないが。
その外堀、泥をどうしたのかは不明ながら(東京勤務の時代である)、今は歩道が設置され、公園に生まれ変わっている。その公園を歩いたわけだ。
かつての実家の向かいが元の御殿医だとかで、広い屋敷が外堀に面していた。その数軒ほど北隣りに初代市長(水田さん)のもっと広大な屋敷があった。その家の広い庭に勝手に入ってセミ取りをしたし、堀に入って金魚を取ったのも主にその庭からだった。今は、それらの屋敷跡にマンションが建っている。残念である。
外濠公園の北の端にはニチボーの工場があった。昨日、「大日本紡績郡山工場跡」だったと思うが、石碑を見つけた。かつての工場には、戦前からの煉瓦塀が延々続いていたものだ。映画のロケに使われたりもした。そこもマンションになっている。
帰りはかつての実家のあった通り(材木町)から戻った。当時の家はほとんど残っていない。歩きながら、その距離の短さに驚いた。子供の頃、もっと長い街だと思っていたのに、あっという間に端から端まで歩いてしまった。
最後に材木町の南端にある薬園(やくおん)八幡神社、通称「やこうさん」に参った。子供の頃の夏祭りと秋祭り、夜店の出た境内は想像以上に狭かった。本殿の前にあった大きなイチョウはどうしたのか(雷が落ちたと聞いたような)、4?5メートルから上がなくなっていた。神輿に乗るための稽古をした神殿も小さかった。しかし、子供の頃によく遊ばせてもらったので、何十年ぶりかで拝んでおいた。50年くらいは経っているかも。
子供の頃の世界を訪ねるのは非常に興味深い。プルーストを読んだ時、最初に登場する土地の名「コンブレー」が気になったが、そのようなものである。
2014/08/04