川北英隆のブログ

コーポレートガバナンス・コード

という、一般人には馴染みのない規範を作ろうとの議論が、昨日、金融庁で開始した。どんなのかというと、企業と経営者がグルになり、自分自身の権益・利益中心主義に陥らないための規範である。
この規範作成の推進母体は金融庁と東証である。僕は関西人だから、このような規範のお仕着せは大嫌いである。同じ関西人の池尾さんが、座長として何を考えているのかは不明だが。
しかも行政が、これまで望ましくなかった企業と経営者の行為を見過ごしていたのに、掌を返したような規範を作ろうというのだから、行政自身の感性を疑ってしまう。もちろん、「今までの行政は・・以上の点で足りませんでした」という反省の弁があればともかく、外部に公表された資料からはこのような弁は何もうかがえないし、これまでの行政自身の行動をどのように変えようとしているのかも見えない。この点、先に金融庁がとりまとめたスチュワードシップ・コードも同様である。
言っておくと、コーポレートガバナンスもスチュワードシップも重要だとの認識に対して反対しているわけでない。僕の最初の出版物『日本型株式市場の構造変化』は、株式持ち合いに反対しているわけだから、コーポレートガバナンスの働く企業経営を目指したものである。
とはいえ、この至極当然のことを、上から目線で命令しようというのはきわめて変としか言いようがない。そもそも、行政にコーポレートガバナンス・コードなるものがあるのか。あったとしてそれが機能しているのか。この点を問いたいものだ。
今日から1週間ほど先だと思うが、公的年金制度に対する改革案を週刊金融財政事情に書いた。結論部分だけを示せば、公的年金制度の劣化(年金受給権の悪化)の歴史が未だに続いているにもかかわらず、その制度の維持を今後とも図る意義が国民の目線からしてあるのかどうか。公務員が公僕であるのなら、この基本から議論すべき段階がとうの昔に到来している。それを議論しようとしないのは、もしも行政のコーポレートガバナンス・コードがあったとすれば、それに明らかに違反している。確認しておくと、国民による選挙で選ばれた政治家が、自分の身分の保持に敏感になり、重要な案件をほったらかしにつつ、企業の規律だけを論じ、金融庁や東証を動かすのも同じである。
また東証に関しても、山水電気とシルバー精工の例を何回も引き合いに出すが、たかだか(ばかばかしいので調べていないが)数千人の既存株主の利益のために、(上場廃止にすれば、そのわずかな数の既存株主の不利益だけに止まるにもかかわらず)きわめて多数の潜在的な株主の利益を痛める行為、すなわち上場維持行為は浅はかである。現在も、とんでもない企業の上場維持が続いている。これもまた、東証としての一般株主に対するコーポレートガバナンス・コード違反だとしか考えられない。
ばかばかしさを指摘すれば切りがないので止めておこう。いずれにしても、主催者はまずわが身を綺麗にすべきである。同時に、これまでの政策を自己批判しないといけない。その上での議論であれば、コーポレートガバナンスであれスチュワードシップであれ、大いに結構である。逆にそうでないのなら、「また言ってる」で終わってしまう。
それだけなら、会議のメンバーに「議論、ご苦労さん」だけで終わるのだが、何らかの規範ができれば、日本では規範が準法律として機能し(行政が圧力をかけ)、上場企業が形式をクリアするためだけにコストをかける(でも内実は変えようとしない)という、アホな結果に終わるのが落ちだろう。それだと、ますます日本企業の経営効率を劣化させかねない。

2014/08/08


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