福島第一原発の責任者だった吉田所長の調書がネットを賑わしている。直接、吉田調書を読んだわけでないので強くは言えないが、仄聞する限り、政治家や経営者との認識ギャップを感じる。
吉田所長が現場とその惨状に直面する唯一の責任者だった。その責任者の能力(知力、決断力等)がすべての鍵を握る。その判断に対して、異議を唱えることが本当にできるのか。現場の責任者が1人ということは、すべてをその現場責任者に託したわけだから、情報量からして、現場に太刀打ちできない。それを外部から指図しようというのは平和ボケだったとしか思えない。もしも現場の意思決定に疑問があるのなら、自らが現場に入り、すべてを見聞きし、専門的な知見に基づいて判断する以外にないだろう。
当時の東電幹部も、政治家も、平和時の意思決定には慣れていたものの、異常時を想定していたとは到底思えない。それもこれも、権威という既得権益を重視するからだと思えて仕方ない。
今回、吉田調書が公開された経緯はよくわからない。勘ぐると、政治的な背景もあるように思える。
とはいえ、吉田調書の断片を報道から垣間見るとともに、これまでの学者達の見解を思い出すと、真実は必ずしも多数意見の中にあるわけでないと結論できる。多数意見とは、その意見を形成している大多数が権威、大御所の見解に異を唱えないから形成されたものである。2011年まで形成されていた地震学者の多数意見が、大地震以降に崩壊したのは記憶に新しい。事実が権威の真の姿を暴くのである。
東日本大震災は悲惨だったし、その影が依然として残っている。しかし、前向きに考えると、日本社会、世界社会の本当の姿を明らかにしてくれたことは良かったのではないか。政治や経済政策が正しいことを行っているわけでない。ある意味、意思決定者自身を含めた既得権益側にとり、都合の良い政策を執行している。もちろん、その政策が完全に間違っているとは誰も言えない。しかも、「では何がもっと良いの、その理由は」と問われたのなら、それに明確に答えるのは至難である。
とはいえ、国民は現在の意思決定者の政策に対して、声を大きくして、「こんな方法がある」と異を唱えていいのではないか。最終的には投票権が矛になる。そうでないと、福島第一原発と同様の、むしろもっと悪性の既得権益慢性病が進行してしまうのではないか。そのように思えてならない。
そう、「偉い人」は世の中に誰もいないと思っていい。多くは虎の威(地位という虚勢)を借りているだけなので。
2014/08/30