飲み会で議論していると(飲んで喧々諤々は趣味ではなく、無駄話で楽しく飲めばいいと思っているのだが、すぐに真面目な議論になり)、今日は東大コンプレックスが話題になっり、「そんなん嘘」と思った。
飲み会のメンバーの1人が東大卒をバカにしつつ、えらく意識している。それを察したもう1人が、「それって東大コンプレックスでは」と指摘したわけだ。
飲み会の6人のうち、2人は東大卒だったか。あまり学歴に関心がないので、ひょっとして3人だったかもしれず、「間違っていたら御免なさい」である。もちろん、東大や京大をはじめ世間の評価の高い大学には、「昔は」(ここを強調しておく)良い教員がいた。では今はどうかというと、自分自身を含めて、必ずしもそうではないだろう。もちろん、きわめて変な大学よりはましだとは思うが。
また、学生はどうかというと、申し訳ないものの、評価の高い大学といえども学生の質はピンキリである。誰とは言わないまでも(名前を書いたところで一般には意味ないし)、「ええっ」というウルトラ級のレベルの学生が、知っている範囲で数年に1人はいる。
多分、クイズ番組的な記憶力がいいのだろう。もしくは入学試験に対する要領がいいのかもしれない。でも、大学は記憶力だけでは通用しない。記憶はベースでしかないのだから。その記憶した知識をいかに発展させるのかで勝負が決まる。社会人になっても同じことである。
東大から官僚になるのが多いのは、官僚は前例主義であり、過去をいかに記憶しているのかが重要であるからだろう。今日の飲み会では、「世の中において頭が良いかどうかの基準は、相対的なものである」「時代において、何が重要かによって、頭の良さの基準は変化する」「たとえば、織田信長の時代、日本の高度成長期、現在のようにグローバルな競争が激化している時代、それぞれにおいて求められる能力が変化していて当然だから、頭の良さを測る基準も変化している」「だから、現在はかつてのような東大的な記憶力の重要度が低下している」との結論に達した。
残念ながら、今の大学教育は画一化が進んでいる。言い換えれば、どの大学もミニ東大的になってしまった。僕が大学生の時代は、少なくとも関西圏では、「東大なんて独創力のない、くそ真面目な者がいく大学」「それよりは京大に行こう」とのイメージが強かった。それなのに今では、京大の学生でさえも(全員ではないだろうが)「東京の大学に負けている」との感覚が強まっている。就職活動でどうしても東京に出向く必要性が高まると、そう思うらしい。
証券アナリストジャーナルの新年号に京都企業に関する分析を書いてみた。それを読んで少しでもかつての「京都は文化の中心」との誇りを呼び戻してほしいものだと思っている。「東京だけが日本」であっては、日本の多様性が欠如してしまい、世界の大きな変化に対応できないと思っているものだから。
2014/12/12