葬儀でお坊さんの有難いお経を聞いた。海外では行ったばかりのイエメンが複雑な宗教がらみの戦争で混乱し、長時間滞在したムッカラはアルカイダに占領されたとか。そこで宗教を考えてみた。
現在、世界で流布している宗教は偉大な個人によって唱えられたものである。キリスト、ムハンマド、ブッダという個人である。もちろん、下地となる考え方があり、個人がそれを受け継ぎ、その上に宗教を集大成した。この点において、宗教は、そして宗教を生み出した個人は偉大だと考えていい。
ここにおいて厳然としているのは、あくまでも人間としての個人が宗教をまとめあげたとの事実である。熱烈な信者は「人間としての個人」ではないと言うのだろう。しかし、生身の人間であった事実は拭いようがない。神との関係は不明であるとはいえ、宗教を唱えた始めた個人が人間として亡くなったことだけは厳然とした事実である。
物理的に人間であれば、その人間の考えは、彼が置かれた地理的、歴史的環境に左右されてしまう。「神だから、絶対だ」との反論もあるだろうが、人間の限界を示す事実はいくつもある。キリスト教の天動説(キリストが唱えたのかどうかは知らないものの、教会の理論となった説)は、その後、覆された。アルコールを禁じるのは砂漠では脱水症状の懸念からきわめて正しいものの、湿潤な東南アジアでは医学的に「(飲み過ぎないかぎり)どうでもいいこと」である。
宗教とは何なのかを考えれば、それは心理的、物質的な生き方に対する総合的な指針ではないのか。僕自身、宗教は、それが生まれた時代環境、地理的環境、経済的環境から判断して、正当な指針だったと思う。しかし、これらの環境が変化すれば(当然に変化しているのだが)、指針も変わらざるをえないし、変えるべきである。多分、「そんないい加減なことだから、退廃するのだ」との熱烈な信者からの批判があるだろうが、時代環境に合わせる勇気がなければ、何事も沈滞したままで終わるし、精神的な豊かさも得られないだろう。
2015/04/06