叔父の清水勇の死去のことを書き、川原隆さんのことも書き、思い出したのが、僕がどういうきっかけで日経新聞と出会ったかである。社会人になってからではない。小学校時代から知っていた。
わが家の新聞はずっと産経新聞(かつては産業経済新聞だったか)である。幼稚園に行く前、その夕刊が楽しみだった。確か、夕刊に少年ケニアの連載があり、父親に読んでもらっていた。配達員から手渡しで受け取った新聞の、当時のインクの強い匂いを今でも思い出す。おかげで字を覚えたと思うし、新聞の中で一番立派なのは産経新聞だと思っていた。
それが、母親の実家(清水家)に行くと日本経済新聞がある。その新聞の情報量は産経新聞よりも圧倒的に多い(昭和30年代の前半はよく知らないが、少なくとも後半は日経新聞の勝ちだった)。それで、「こんなすごい新聞があるんや」と思った。株式や商品の相場面の構成は今と大きく変わらないと記憶している。ただし、現在、商品相場の占める割合は少なくなったようだ。
何故、母親の実家が、当時はマイナーだった日経新聞を購読していたかというと、主に株式投資のためだった。僕の父親は、戦後、ビルマでの戦友の家でしばらく働いていた。その家が金持ちで、株式に投資していたから、配当金などの郵便物が送られてくる。そのことから父親は株式を知り、投資を始めた。さらにそれを実家に伝えたらしく、僕の母方の爺さん(清水與二郎)が「せやな」というので株式投資を始めたとのことである。爺さんは当時、松下電産に集中投資をして儲けていて、そんなこんなで「株式投資=日経新聞」となったらしい。
僕が日経新聞を自分で購読したのは、大学時代に下宿した直後である。1回生の5月から下宿したから、1970年から日経を購読したことになる(超長期購読の表彰はないんか)。当時、隣の部屋の下宿生が赤旗を購読していて、毎朝、「右と左の新聞が並んでるな」と思いながら、右の日経を部屋に持って帰っていた。
もちろん、就職してからも日経新聞である。だから、下手な日経の記者よりも(誰が下手なんやと文句が出そうだが)、日経の紙面のことをよく知っているというのが自負である。それでいつも日経に文句を言っているわけだ(ホンマかな)。
2015/05/22