知り合いの家を訪問し、何かの拍子に泊まるのが好きである。もちろん、緊張してはいる。だから、よその家は好みでないのかと思っていたが、大人になり、いろいろ知るにつれ、好きだったと悟った。
普通の子供はよその家の泊りを嫌がるそうだ。それと比べると、大きな抵抗はなかった。
子供の頃は親戚の家を泊まり歩いた(何箇所も止まった経験がある)。ご馳走が出るからだと思っていたが、何回も行くうちに、そんなのは出なくなる。それでも面白かった。現在、僻地の旅行が好きなのも、その延長線上だろう。
何故なのか。多分、日常が好きでないのだと思う。変化がないと面白くないとも言える。
でも、よそに泊まって心配なことが1つある。それはトイレである。子供の頃、田舎のトイレは板を単にくり抜いただけの、それも大人仕様の大きな穴の開いたのが多かった。それが、今にも吸い込まれそうで嫌だった。だから、トイレの我慢の限界が、泊りの限界だった。
今でも、海外に旅行するとき、僕の場合は、トイレの仕様が快適さの大きな要素を占めている。
旅行で一番嫌だったのはチベットの田舎の招待所のトイレだった。低い敷居のあるトイレで並んでするのは、慣れないと抵抗がある。それだけなら何とかなるが、夜中は暗くて、何か出てきそうな雰囲気だった。
テント泊でのトイレも好きでない。満天の星空ならまだしも、霧の夜なんかは嫌になる。子供の頃の田舎のトイレと同じで、得体の知れぬイメージが浮かび上がるのだろう。闇の中から、大きな手が伸びてくるような。
前回のブログで書いた、岡田君の家を訪ねた記憶から、知らない場所の訪問、泊り、そして必然の結果としてのトイレと、連想の結果である。
2015/10/11