今日の日経、大機小機は酷い出来だった。「持ち合いの是非」とあり、結論は株式持ち合いの擁護論でしかない。擁護の根拠は、投資家が企業と対話し、株式を長期保有できるはずがないというものである。
高度成長期、株式持ち合いに意味があったことは認めてもいい。しかし、その持ち合いが企業経営をコントロールできたのかといえば、コントロールできなかったから、とくに中長期的な経営方針を企業と議論できなかったから、もっといえば持ち合い株主(主に銀行)自身の経営がコントロールされていなかったから、日本経済がバブルに陥り、その後に凋落したのである。
そんな持ち合いに(とくに旧財閥系から)学ぼうと筆者は主張している。寝言だろう。そうでなければ、推測だが、出来の悪い部下に代筆させたのだろう。
もう1点、致命的には、本来の長期投資家が何であるのかを理解していない。現実には、そんな本来の投資家は多くない。対話といっても、対話能力のない投資家が大半であり、日本の多くの投資家は長期保有が何なのかを正しく理解していない。そうであるから、対話に「大きな社会的コストがかかる」との筆者の議論は杞憂にすぎない。むしろ、もう少しコストをかけて欲しいものだと思えて仕方ないのが現実である。
また、本来の企業と対話する投資家に、普通の投資家がただ乗りできるとの思い(目論見)は夢物語である。どの投資家が企業と本当に対話し、その結果企業がどのように変わろうとしているのかを外部から正しく把握するには、ただ乗りを目論むだけでは不可能である。そもそも、日本にただ乗りできるほどのはしかい投資家が多いのなら、能のないインデックス運用がこれだけ無批判に流行るはずがない。
ということで、今日の大機小機には久しぶりに笑ってしまった。少々の見解の不一致なら「そうかな」と思い、真面目に批判を考えるのだが。ということで、書きたいことが即座に浮かび、それをがんがん書き始めてみたものの、書くことがありすぎて飽きてしまった。ということで、途中で「もういいか」と矛先を収めることにする。
今日の筆者が知り合いでなければいいのだが。
2016/01/26