東日本大震災から5年が経過した。いろんなイベントが組まれている。お涙頂戴的なものは好きでないし、涙を流すだけでは進歩がない。このため、ブログに書くつもりはなかった。しかし、「5年前も金曜日やった」と、ふと思い出した。
当日は証券アナリストジャーナルの編集会議だった。早く終わったので宿泊先に戻ってすぐに、揺れ始めた。東京は地震が多いので「いつものやな」程度に思ったが、なかなか揺れが収まらない。そのうち、さらに強く揺れ始めた。テーブルの上のものも落ちそうになった。揺れは非常に長かったように感じた。本当のところどのくらい続いたのかを調べたところ、200秒以上とあった。揺れは多分数分程度だったと思っていたので、ほぼ記憶と一緒か。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110527/dst11052718540020-n1.htm
この200秒という数字は阪神大震災の20-30秒との比較できわめて長いという。もう1つ、同じニュースに「東北地方では揺れが始まってから40-50秒後と80-90秒後に揺れのピークが来ており・・地震を引き起こしたとされる大きな断層の滑りが発生した領域が複数あったため」とある。これも体感と合っている。要するに普通の地震と大きく異なっていた。
その日の夜、勉強会兼懇親会が竹橋であった。歩いて行ったところ、僕を含めて3人だけが集まった。「とりあえず飯でも」となり、ようやく如水会館1階のレストランで食事を出してもらえることになり、軽いフレンチを食べ(フルコースなんて非常時にあるわけないし)、ワインを飲んだ。
実はその勉強会で、外資系証券会社に就職し、香港に転勤することになっていた中国人留学生と会う約束だった。当然、流れてしまった。香港の居場所は知っているのだが、5年経過した今でも会えないでいる。香港市内での用事がないだけなのだが。
それはともかく、地震の日が金曜日だと覚えていたのは、翌日の新幹線で京都に帰った記憶が鮮明だからである。「今日が土曜日でよかった」と思いつつ、新幹線に乗った。地震の直後、一番早い新幹線に予約変更していたことと、宿泊先が東京駅まで比較的近かったことが僕にとって幸いだった。山手線、京浜東北線は動いてなかった。
チリ沖大地震とその津波の新聞記事を覚えている。1960年5月の天災である。それから51年後に東日本大震災が起きたわけだ。地震後、最初にイメージしたのはこのチリ沖大地震だった。テレビのニュースをすぐに見たので、津波が押し寄せているのがわかった。とはいえ、イメージしたのは三陸地方の津波のみだった。福島でとんでもない事故(人災)が起きるとは思いもしなかった。
東日本大震災の特徴は、老齢化が急速に進む中で起きたことである。これが東北地方にとっての不幸だった。さらに、原子力発電所の事故が余計である。この事故がなければ、東北地方の復興がもう少し順調に進んだはずだと思う。この意味で、東京電力と監督官庁の罪は非常に大きい。廃炉が完全に終わらないかぎり、地震の生き証人が生々しい声を発し続けるわけだ。
2016/03/11