植彌(うえや)加藤造園の社長、加藤友規氏の話を聞いた。リベラルアーツを社会人向けに講義しているスティラート社が、そのセミナーの一環として京都で加藤氏に講演依頼したので、それに飛び入り参加した。場所はGCIアセットマネジメントの京都ラボを借りた。
植彌は1848年創業とか。京都の寺社や明治以降の庭園を手がけている。社員104名とある。造園業者の中には公園などを作り、売上高100億円を超えるところもあるらしい(それでも規模は大きくない)。植彌の売上高規模はその1/10程度らしいが、庭園だけを手がける業者として、多分最大手の1つなのだろう(質問しなかった)。
庭師には完成がないらしい。「作庭四分、維持管理六分」とも言うらしいし、最近では維持管理ではなく「育成」と呼んでいると説明があった。つまり、庭は姿を変えていく。季節(春夏秋冬)、時間(朝昼夕夜)、天気(晴曇雨雪)によって庭の姿が異なる。これに花鳥風月が加わるから、この4つの要素だけで少なくとも256通り(4通りの4乗)の姿がある。その姿をすべて知ったうえで完成度の高い庭を作るには、つまり本物の庭師になるには200年はかかるとのことだった。
興味深かったのは、日本庭園を外人が好むようになっているとのこと。南禅寺周辺の庭を外人が買ったことは知っていた。今では、中国やドバイの大金持ちの依頼を受け、海外でも作庭をしているとの話が紹介された。
当然ながらドバイと日本とでは気候が違う。庭に使える植物も異なる。現地の専門家と相談し、使える植物を決めているそうだ。
契約金額に関する質問が出された。通常の工事請負とは異なり、おおよそのイメージを描いて発注主と相談し、金額を決めるそうだ。相手が大金持ちだからでもあろう、しっかりと予算管理をして作業を進める世界とは異なるとも説明を受けた。要するに作庭や育成は芸術である。積み上げ計算で金額を決められるものではない。
以上で共感したのは、上で述べたように庭の姿が千変万化するとの認識だった。大文字山には256回(正確にはそれを少し超えて)歩いている。豪雨の時も、それが面白いので歩いた。そんな大文字山だが、毎回姿が異なる。加えて、年月の経過がある。何回歩いても同じ姿がない。庭もそれと同じとのことだろう。庭にしろ大文字にしろ、地球規模からすれば小さな世界ではあるが、それでも奥が深い。世の中を極め尽くすのは本当に難しい。そう再認識した次第である。
2018/05/12