地震のおかげで敦賀を2日間も散策した。というのは大袈裟ながら、日曜日の午後は敦賀の南部と気比(けひ)神宮を、月曜日は金ヶ崎城趾と港付近を散策した。ほぼ主要部は見たと思う。感じたのは、敦賀の過去の栄華と現在との落差である。
これまで敦賀に降り立ったことがなかった。金沢への旅行、そして学生時代の北アルプスへの山行で通過するし、戦国時代の戦いで重要な位置を占めていたことも(深い関心はないものの)何となく理解していた。
今回の旅行で、「過去、こんなに発展した町だったのだ」と認識を改めた。事実は、日本海側の重要な港町だった。
京都と大阪へ物資を運ぶ拠点として栄え、明治維新後は朝鮮半島、中国東北部、ロシアとの主要貿易港としての地位を占めていた。昆布をはじめとする海産物が多いのも、敦賀の歴史を物語っている。
そうそう、気比神宮は北陸道総鎮守であり、越前国の一宮としての由緒がある。
銀行も設立されたし(ウィキペディアによると大和田獏の先祖が設立したとか)、杉原千畝によってビザを発行されたユダヤ人が敦賀港で上陸したとか、桑原武夫の出生の地であるとか、話題に事欠かない。
人口の割にきわめて長大なアーケード街が残され、呉服店も多く、町中を散策すると立派な建物も散見できる。しかし、それらは撮影の終わった後の映画のセットのようでもある。アーケード街にしろ、港にしろ、人影が少ない。漁業はともかく、商店の経営が成り立っているのかはなはだ疑問だった。
東洋紡績、永大産業、敦賀セメントの工場があるものの、これらが成熟産業であることは否めない。地の利の観点から、現在の敦賀に有利な点が見当たらないように思う。いずれ北陸新幹線が伸びてくるが、どこまで役立つだろうか。
今の敦賀の主要産業は原子力発電だと思えてならない。アーケード街の一角に日本原子力発電の事務所があり、広い駐車場もあった。駅前には三菱(重工?)の原子力関係の看板も見られた。関西電力だったか、専用バスも走っていた。
敦賀は一瞬だが敦賀県になったこともあるらしい。地理的には北陸だが、文化的には関西である。そんな独自色の強い地域の中心都市でもあろうが、その敦賀の姿を目の当たりにすると、他の県庁所在地の近未来を見るようであり、複雑な気分になってしまった。
2018/06/20