川北英隆のブログ

コヒマでの戦闘

今回参加したのは企画ツアー、それ自身の目玉は、コヒマの南で開催されるホーンビル・フェスティバルだった。日本風に言うと、ナガ族の部族対抗芸能合戦的なものか。一方、僕の最大の目的は、父親が攻撃したコヒマでの戦闘の状況を多少なりとも知ることだった。
インパール作戦の一部だったコヒマの戦闘では、イギリス軍の司令部があった「コヒマ三叉路」の南西から南に続く高地を日本軍が奪おうとした。
コヒマ三叉路は小さな峠になっている。ディマプールから来た道が峠を越え、南に折れて(つまりイギリス軍司令部のあった高地の東側を通り)インパールに続く。三叉路の北側の丘にはコヒマの村(ナガ族の居住地)が広がっていて、そこに続く道がある。今でもこの三叉路は重要な街道の分岐点となっている。行けばすぐに分かる。
現在、イギリス軍司令部のあった高地がどうなっているのかというと、コヒマ三叉路のすぐ上(南西)が第二次世界大戦で亡くなったイギリス軍(といっても多くはインド人)の墓地(セメトリー)である。緑が多い。セメトリーの南には政府機関の建物が多い。丘の上が好まれるのだろう。実のところ、コヒマで僕が滞在したホテルはそのセメトリー入口の向かいにあった(ブルーバユー・ホテル)。
父親が監修した『烈百三八ビルマ戦線回顧録』にはコヒマ三叉路を巡る戦闘の概略地図が添えられている。父親が作成したものである。戦闘の全体図とコヒマ三叉路付近の2つの地図をアップしておく。烈百三八とは、138聯隊のことで、「烈」と名付けられていたらしい。
全体図にはコヒマ三叉路の記載はない。真中付近、「イヌ△」との記載付近がコヒマ三叉路の南西側の丘(ガリソンもしくはギャリソン高地)である。
コヒマ三叉路付近の地図には病院丘、テニスコートなどの記載がある。テニスコート付近ではボールではなく多くの弾が行き交った(といっても、イギリス軍からの弾が圧倒的に多かったようだが)。多くのイギリス軍がここで亡くなったようだ(日本軍は無視されている)。このため、そのテニスコートの跡が今も残されている。
父親はその裏側、病院丘側から攻めたらしい。ディマプールからコヒマへの道の下側から攻め上がり、それを越えて倉庫群の上にあった壕にまで達した。その壕で、敵兵の戦死者(インド兵)と一緒に一夜を過ごした。翌朝、さらに丘の上部を目指したが、イギリス軍の総攻撃に遭い、脚を負傷して撤退を余儀なくされたとのこと。
父親は戦友との飲み会でよく話していた。「あの時、負傷していなければ多分死んでいたかも」、「早い段階で負傷し、病院に行くため後方に退いたので、日本軍がインパール作戦で味わった病死と餓死との悲惨な目を多少逃れた」と。
20181223コヒマ全体地図.JPG

20181223病院丘地図0409.JPG

2018/12/23


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