コヒマの司令部が置かれていたのが丘だったと、戦争にあまり関心のなかった僕も知っていた。戦友との酒飲み話でよく登場したから。でも、当時のイメージは「牧草地」的なものだった。のんびりした丘が、突如戦場になったのだろうかと、その程度のものだった。
実際はそのイメージとかなり異なっていた。当時、ナガ族の住んでいたコヒマ(現在の旧市街)は比較的広々とした丘の上にある。それに対し、イギリス軍の司令部があった丘の両側は急な斜面である。「落ち込んでいる」と表現してもいいくらいだった。
この点はグーグル・アースで一定距離間の標高の変化を調べると明らかである。
父親の記録によると、戦争当時のイギリス軍の司令部付近は林もしくは密林だったらしい。現在では市街地が広がっている。住民は路地のような、登山道のような細い道を上がり下りして生活している。
そんな斜面を下から奇襲的に攻撃したのが当時の日本軍であり、父親が中隊長として指揮した一団(烈第8中隊)もそうだった。丘の上から本格的に砲撃されれば圧倒的に不利である。そもそも、登山でもあるまいに、そんな斜面を身一つで登るだけでも大変だっただろうと、現地を見て思ってしまった。
父親が奇襲的に攻撃した(攻撃を命じられた)当日は勝利した。しかし翌日、相手も十分に備えている。兵器の質と量で圧倒しているのならともかく、むしろ圧倒的に負けているわけだから、どうしようもない。そもそも、十分に食べていなかったとも、戦記に書いてあった。
何事にも精神力が重要な要素だとは思う。しかし、それは物理的な条件が同等近い場合である。当時の日本軍の指揮官は現場を知らずして、精神力をことさら重視したのだろう。自分自身の失態(兵器と食料の不足)を隠蔽するためには、客観的に不利な状況を偽るには、精神力を強調するしかない。それならに、いずれ負けるに決まっている。
ついでに言えば、今の経済金融政策はどうなのか。指揮官、つまりトップが現場を十分に知っているのか。物価上昇期待、株価上昇期待、日本の技術力などを称えるだけで十分なのか。もう一度胸に手を当て、再度客観的に状況を評価し、その結果を公表すべきだろう。
ともあれ、写真は東側の丘から見たコヒマ三叉路付近である。
左手に広がるのがコヒマ旧市街(昔からのナガ族の村落)、真ん中左手から右手にかけて見える道(黄色い筋)がディマプールからの輸送路であり、今でも重要性は変わらない。
少し左から右手にかけて伸びる丘(緑豊かな丘)が日本軍の攻め込んだ丘というか高地である。その左側、緑豊かな丘と旧市街が交わる付近が三叉路になっている。
戦争が始まった当時、もっと緑が濃かったのだろうと想像し、この風景を眺めた。日本軍が敗走する段になると、イギリス軍の司令部があった付近の林は、砲火で完全に消えたらしいが。
2018/12/23