最初、エジプトを旅行していて不思議だったことがある。酒を飲まず、豚肉を食べず、定期的に祈る「規律正しい」国民が、車の運転となると何故、車線や信号を守らないのか。
エジプトの場合、他のアラブの国に比べ、アルコールと祈りに対する戒律が強烈なわけでない。それでも祈りの場所をよく見かけるし、メッカの方に向かって祈る姿があるし、モスクからは定期的に祈りの声が響く。
豚肉料理なんて、それがあるかどうか質問することさえ憚られる。店先で売られている肉は、牛か羊かニワトリである。ハトとウサギも見たし、魚もある。しかし、豚は見なかった。飼われてもいなかった。前回に訪れた印緬国境において一家に一頭程度で飼われていたのとは大差である。
正確なところを書いておくと、エジプトでもアルコールを飲んでいるイスラム教徒がいるようだ。今回、ギザで列車に乗る段階でガイドのアシスタントを務めた若者がそのようだった。神への祈りのため、仕事を中断するから経済の発展が妨げられているとも話していた。
エジプトのレストランではビールやワインが、日本の高級レストランでの値段並みで高いものの、普通に飲める。見つけられなかったが、アルコール類を売る店も堂々とあるらしい。イスラム教徒以外にコプト教(キリスト教の一種)が人口の10%程度を占めているから、当然なのだろう。
とはいえ、厳格なイスラム教徒がいるのも事実である。目だけ出して、黒い服にすっぽり包まれた女性も目立つ。ガイドに観光客かと質問したところ、エジプト人だという。地下鉄には女性専用車両がある。モスクに入るには靴を脱がなければならない。
最初の疑問に戻ると、多分アラーの神が絶対であり、国が定める規則というか法律は相対的なのだろう。アラーの神の戒律に対して、それを疑うことは許されないか、それに近い。法律の場合、合理的であれば、それを守る必要性がないに等しいのだろう。
だから、車線や信号も「守らない方がいい」場合が生じる。テロによる殺人も許される。多くのエジプト人はそうとは思っていないのだろうだが、神の教えを守るためには「テロはあり得る行動」である。
写真はカイロのイスラム地区である。モスクが多い。
2019/02/11