川北英隆のブログ

新しい元号に思う

5月からの新しい元号が公表された。令和だとか。この元号が決定される前後はお祭り騒ぎだった。後という意味では、今も騒ぎが続いているか。別に元号に反対ではないものの、そこまで騒ぐのは変だと思っている。
そもそもの元号は年代を示すものだった。西暦もその一種である。明治以降の元号は、在位する天皇を示す意味合いが強くなった。年代を示すものとして、西暦に本来の地位を譲るべきだろう。キリストをベースにする年代の数え方、西暦に違和感があるのは僕もそうだが、仕方ないと思っている。
というのも、経済や政治活動がグローバル化していることと、年代を記録すべき期間が長期化しているからである。外人に「昭和が終わり、平成に入って」と語ったところで、ほぼ通じない。日本語が書かれたものを英語などに翻訳するときには、特別な場合を除き、西暦で表さないといけない。
外人には西暦何年と言うべきなら、「昭和何年が西暦何年に当たり」とか、誰がわざわざ計算するだろう。当然、歴史も西暦で記憶すべきである。
それに、個人としても寿命が長期化している。僕なんか、この4月いっぱい生きたとすれば、昭和、平成、令和の天皇3代をまたがってしまう。まだしばらくは大丈夫だろうが、そのうち、「生まれはええっと昭、昭和○○年で、会社を退職したのは、ええっ何やったんかな、はひふへ、へが付くような、そこまで出かかってるのに」となりかねない。
グローバル化と人生100年をスローガンにしている政府として、元号に固守するのはいかにも変である。天皇の退位をきっかけにすかっと西暦に統一するのかと思っていたのだが、奇妙なことに平成とか令和とかに思い入れがあるようだ。総理として、次の天皇に令和という名を捧げた事実だけで十二分だと思うのだが。
ついでにもう一点だけ、令和は万葉集に出自があるとのことだが、この漢字のイメージには裏がありそうに思う。「令」は命令の令であり、律令の令である。すべての日本国民に命じることで、同じ方向に向かわせようとしているような。
令和に全体主義的、独裁的イメージを受けるのは僕だけなのか。杞憂であれば幸いなのだが。杞憂でなかったとしても、次の天皇はその名前を与えられたにすぎず、何の責任もないことだけは大いに強調しておきたい。

2019/04/03


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