「人生100年の時代」と叫ばれている。「長生きできていいね」と単純に喜べないのは誰もが感じるところである。不老長寿の薬を是が非でもと、大金をかけて求めたのは昔の王様である。長生きしたとしても、一方で財力もあり、楽しむために使用人を無数に雇えた。
今の「人生100年の時代」は、むしろ政府としての警告だろうか。もっと働け、もっと財を築け、精神的に楽しむために子供をたくさん生めということだろう。
斜に構えれば、政府が直面する課題を一気に解決するために、国民を脅しているようにも思える。要するに、70歳以上の国民にもっと働かせ、株式を買って財を増やさせ、少子化から離脱して若い国民を増やす。そういう政府の目標を統合すると、「人生100年の時代」を吹聴することが解決策となりうる。
でも、今までの政府の政策の多くはちぐはぐだった。言い方を変えると、本音を隠そうとしていたのに、いつか本音が表面化し、国民の反感を買ってきた。
今大問題なっている(野党が大問題化しようとしている)老後資金が2000万円不足するという国民の平均像もその類である。政府が「公的年金は大丈夫」とだけ公言してきたものだから、何割か(少し多いかな、何%か)の国民が年金だけで老後の生活ができると勘違いしたのではないだろうか。
今まで政府の誰が、国民の老後の生活を真面目に議論しただろうか。年金だけ、医療だけ、介護だけと、老後の一部分の姿と対応策(極論すれば弥縫策)だけを示してきたにすぎず、全体像を示す努力は皆無に近かったと思う。
人生100年というのであれば、健康で何歳まで生きられるのか、健康でなくなった後に何に困り、それに対して政府としてどう対策を講じようとしているのか、これらの議論が必須である。困るのは財産だけでない。
老人としての生活に不足するのが何なのか。買い物であり、そのための足である。友人であり、その友人との行き来である。趣味であり、その趣味を実現する場である。
足を痛めるとよくわかるが、階段を使わずに交通機関を使うことがきわめて難しい。高くつくものの、大都市ならタクシーという手もあるが、田舎に行かずとも、地方都市ではタクシーの数も限られている。これからはネットもあるだろうが、老人になると頭が衰える。その時にどうするのか。
以上のように、少し考えただけでも、資金力以外にいろいろ不足するものが浮かんでくる。そもそも論として、尊厳死のことも真面目に考えてほしいとも思う。
でも、僕の意見としては人生100年なんて、平均的な意味ではあるが、今の若い世代が老人になる頃に実現しているかどうかは怪しいと思っている。少なくとも健康で生きられるのは80歳手前くらいだろう。その後はどこかが不満足な状態になり、80歳の後半まで生きてしまえば楽しい状態から程遠くなる。「生き過ぎた」と後悔が生じるかもしれない。
以上にように考える最大の背景には、現代人の食生活が不健康なことにある。僕自身も今は健康的な食生活を送っていないが(たとえば飲み会が多すぎる)、それでも平均よりはましな方である。もう少し言えば、50歳くらいまではえらく健康的な食生活だった。それなのに、70歳が接近し、今の不健康な食生活が祟ったわけでもないだろうが、不具合が生じつつある。
安心していいのかどうかはともかく、今の若者は平均的には80歳位まで生きられるかな。リスクとして最大90歳を見て生活設計しておけば十分ではないだろうか。その頃になると医者も、消極的な意味で安楽死を容認しているかもしれないし。
2019/06/24