川北英隆のブログ

究極の株主権と株主総会

昨日、某大手商社に夕食をゴチになった。IR(株主向けPR)イベントに参加した、そのお礼だそうな。その席で聞いたのだが、個人株主が株主総会で投票することは少なく、企業は総会当日に出席者の賛否を数えない。事前に議案の可決、否決が決まっている。
個人株主の比率は、上場企業の平均値で20パーセントを割る。残り80%以上はプロ投資家や取引先などが保有し、議決権をほぼ100%行使する。普通、プロ投資家らが会社側の議案に反対することは多くないから、個人株主の投票を、ましてや「お土産目当て」で総会に出席する個人株主の賛否を待つまでもなく、議案の可決、否決が決まっている。
とはいえ、株主総会当日、出席者の票を数えないといけない事態も生じている。今年のLIXILの事例である。さらに言えば、マザーズなどの新興市場に上場している企業では個人の持ち株比率が高いから、個人株主の投票が重要な場合があろう。
この某大手商社の場合、個人株主作りに力を入れている。株主総会対策というよりも、個人に株式を買ってもらい、株価の水準を上げ、かつ安定させたいのである。そのための個人向けIRもやっているとか。個人向け製品やサービスがない企業でも、個人株主へのPRとファン作りをやらないといけない時代になった。
ここに重要な示唆がある。結論を先取りすれば、株主の権利は株主総会での投票権にとどまらず、究極の権利は売買する権利だということである。
現在、金融庁は投資家(プロ投資家)向けにスチュワードシップ・コード(投資信託や年金など他者の財産を運用する「プロ投資家の責任ある行動原則」とでも訳すべきか)を策定し、それと対で上場企業のコーポレートガバナンス・コード(企業統治のための原則)を策定している。コードを対にしたのには、投資家と企業が互いによく議論して(コードの書きぶりは、「対話」して)上場企業を良くし、株価を高めようとの政府の意図が込められている。これらのコードには、株主による株式売買への言及がない。投資家として株式を保有したまま、その株式の価値を高めようとの暗黙の前提がある。
8/21、日経新聞の朝刊の特集記事「ガバナンス最前線」に僕が登場した。ガバナンスの旗手との出で立ちである。日本生命出身の後輩たちと一緒に登場したものだから、それは光栄なのだが、「ガバナンスの旗手」に関しては本心とは異なる。
投資家が企業と議論をし、その評価の一環として株主総会の議案に賛否を投じること(言い換えればガバナンスに関する行動を積極的にとること)の重要性に異論はない。しかし、「それだけではないやろ」というのが、僕の一貫した信念というか主張である。
たとえば、議論しても企業が良い方向に変わらなければどうするのか。毎年の総会での会社側の議案に「否」を投じ続けるのか。それとも株主として独自の議案を提出するのか。
東証株価指数(TOPIX)の値動きをそっくり模倣するため、2100社以上の株式を保有している投資家が多い。それらの投資家は2100社以上と議論しなければならないのか。2100社以上の中には、当然のことながら、落ちこぼれ企業が含まれている。もっと書けば、素晴らしい企業、普通の企業、ダメ企業がある。この2100社以上との議論、それによる企業価値向上の努力とは、「駆けっこでお手々つないで皆で一等賞」を思い浮かべてしまう。
お手々つないで一等賞は道徳的には美しいのかもしれない。そうだとしても、日本という井の中で美しいだけである。一歩海の外に出れば激烈な競争が待ち受けている。お手々をつないでばかりではいられない。
激烈な競争社会を生き抜き、日本全体が欧米や中国と戦えるためにどうするのか。議論しても変わらない企業には退出してもらうしかないと思う。
ダメ企業かどうかは、特定のプロ投資家の判断だけで決まるものではない。投票しなければならない。その投票の手段が株式の売買である。ダメ企業を売る。代わりに素晴らしい企業を買う。この投票がなければならないし、政府もこの事実を認めないといけない。ダメ企業をいつまでも存続させるのなら、日本全体が世界から落ちこぼれ、沈んでいく。
以上の意味で、株主の究極の権利は売買する権利である。株主総会での議案に対する賛否の投票ではない。

2019/08/29


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