川北英隆のブログ

茹で蛙の日本社会

今年の誕生日が来れば、僕の満年齢が70に到達、社会的に年寄りの域に入る。嬉しいことに年寄りにしか言えないことがある。「年寄りもびしばし鍛えないといけない」と。
今日の日経の1面を見ると、コラム「春秋」には、人間が順番に死ぬこと、これがめでたいことだと書いてあった。老化すれば消え去るのが世の中のためである。老化したのに下手に生き残ってはいけない。
同じ1面には、日本の銀行の数の減少率が欧米に比べて小さいとの記事があった。銀行と名乗る機関以外に、郵便局(ゆうちょ銀行かな)、信用金庫、信用組合、農協、その他いろいろと銀行と同じ機能を提供している機関がある。
地方に行くと、誰もいない店舗を見るにつけ、本当に客が訪れているのかと、他人事ながら心配になる。人口が減少していること、店舗の数が多いこと、競争が激しいこと、「かぎりなく貸出金利をゼロにもってきた」日銀の金融政策、いろんな要因が重なり、銀行ビジネスは儲からなくなってきている。一言で言えば老化である。
でも、銀行(類似の機関を含む)の数が減っていかない。あの手この手を使い、「銀行の名前を存続したい」との力が働いている。かつて、銀行は地方の殿様だった。名門と思われてきた。経営者には、その名を「今の代で消すのは不名誉」という意識が強いのだろう。
銀行に限らず、日本の名門企業の経営者には、この思いが非常に強い。時には悪あがきをする。大枚をはたいてでも不老不死の妙薬を求めた、かつての王様を彷彿させる。そんな悪あがきのための材料や資金があるのなら、安らかな眠りが得られるうちに名前を消した方がいい。従業員に幸せをもたらすし、名門企業の潔い最後として歴史に残ると思うのだが。
日本の社会も、そんな年寄りを特別扱いしてはいけない。もちろん元気な高齢者もいるし、名門企業の中にはしゃきっとした企業もある。世界の中で日本は厳しい競争に晒されているのだから、そんな世の中で生きている高齢者も普通に扱うのが正しい。元気なら社会のために活躍してもらう。駄目なら去ってもらうしかない。
12/28、日本ファイナンス学会の若返りを図るため、年寄りに去ってもらうための制度が導入されたと書いた。
もう1つの事例を挙げれば、12/12に書いたボルカー氏のことである。見舞いに行った行天さんが言うには、ベッドには何の延命装置も付けていないボルカー氏が寝ていたと。著名人であるボルカー氏には延命措置が当然施されている、そう行天さんは思っていたらしい。アメリカ社会の普通の対応を見た行天さんは、「自然にあの世に行けるのがいいね」と、感想をもらしていた。
日本はやりすぎである。変なプライドというか、こだわりがある。おかげで社会が沈滞している。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の逆バージョン、「茹で蛙、みんなでなれば怖くない」ということか。
でも、その茹で上がった蛙を「えらく美味いね」と、むしゃむしゃ食う輩がいることを忘れてはならない。ひょっとして、「もう少し塩味を利かしたほうがいいかも」とか、好き勝手なことを言っているかもしれないし。

2020/01/05


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