川北英隆のブログ

楢神社と和爾下神社

和爾に寄ったついでに和爾下神社に立ち寄ろうと思った。前にも少し書いたが、由緒ある神社である。そうなのに、参ったことがない。
和爾から下り、再び楢川に沿って歩き、国道169号線に出る。バス停「白川橋」がある。
この国道は上ツ道と呼ばれていた奈良(平城)時代からの道を車道にしたもの。櫟本付近の国道は旧道の東側に付けられている。この国道ができた時、みんなが「上街道」と呼んでいた。それが不思議で、対のはずの「下街道」はどこだと思っていた。下街道も実際にはあるのだが、一般に誰もそう呼んでいないだけである。
その国道に出て「楢神社」の看板を見つけた。「そうだ、楢に行こう」というわけではないが、その楢神社にも参ったことがない。そのはずなので立ち寄ることにした。
母親の名は「楢糸」という。変な名なのだが、上の男の子が早く死んだので、母の両親が楢神社にお参りして付けてもらったと聞いた。
神社は楢の村中にある。楢川の左岸である。付近の信仰が厚いようで、そんなに大きな境内ではないながら、境内は整備されていた。そもそも、楢は奈良と無関係ではないはずで、立派でなければならない(何でやというところだが)。
ここから上街道に戻るように歩いた。適当に歩いていると、土饅頭のような小さな丘の横を通った。墓地だったが、様子が少し変だった。と、近くの標識に古墳と記されていた。古墳を今も墓地として使っている。和爾の神社といい、古墳の管理はどうなっているのか。古代の遺跡が当たり前すぎて、その保存や管理を主張しただけでは何も進まないのか。
上街道に戻り、少し南に歩くと、和爾下神社の鳥居がある。ここから東に参道が伸びている。本当のところ、和爾下神社という神社は2キロほど真西、大和郡山市の横田にもある。かつてはそこから参道が続いていたのだろう。確認していないが、横田付近を奈良時代の街道が通っていて、それが和爾下神社の起点だったと思う。
天理の和爾下神社だが、明治天皇も遥拝したらしい。でも、参道は参道らしくなかった。いわゆる乱開発のような。和爾下神社の奥には古墳(東大寺山古墳、赤土山古墳)があるのだが、シャープの研究開発施設の建設時に多くの森が伐採されたのだろう。森の跡には天理教の教会もある。
和爾下神社へは東向きの参道から北に折れる。神社の社のある森が古墳になっているようだ。近くには柿本寺跡など、和爾由来の史跡もある。今回は神社にだけ参った。
後は櫟本の駅まで歩くだけである。子供の頃、何回か連れて行かれた駅だが、ほとんど何も覚えていない。和爾まで遠かった程度の記憶か。
上の写真は和爾下神社の本殿である。その本殿の前に狛犬ならぬ狛牛が写っている。向かって右側の牛の角が折れているのがかわいそうなようでいて、むしろ愛嬌がある。
そうそう、和爾下神社の神様はスサノヲノミコトであり、そのスサノヲノミコトは牛の姿として表現されるらしい。だから狛牛のようだ。
もう1つ、和爾下というからには和爾上があるはずで、それが和爾坐赤阪比古神社だろう。
20200120和爾下神社.jpg

20200120狛牛.jpg

2020/01/20


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