南禅寺界隈の庭園、對龍山荘を見学した。現在はニトリ(財団)の所有になっている。南禅寺界隈の庭園群の1つである。なお、写真のアップは禁止されている。ネットにいくつかアップされているので見られたい。
この界隈、元々は南禅寺の寺領であったが、明治維新によって寺院の特権が縮小したため、仏像などの文化財はもちろん、土地も手放された。南禅寺の元寺領は、琵琶湖疏水の開通もあって別荘風に開発されていった。
現在でも南禅寺の西側に多くの庭園があるのは、ある意味で明治維新の成果物だろうか。廃仏毀釈のことを想起すると、アフガニスタンやシリアで繰り広げられた反政府勢力による「過去の文化の破壊活動」と大差ないようにも思えるが。
その時代に作られた庭園1つが對龍山荘である。当初(1896年から)、薩摩藩の伊集院兼常が所有していた。近くに無鄰菴を所有していた山縣有朋との関係だろうとのこと。
1902年(明治35年)に呉服商、市田家の所有となり、そこに小川治兵衛が作庭した。建物を含め、明治40年以降に改造されたものが現在の景観の多くを占めるという。小川治兵衛以前のものは庭園の下部と茶室に残っているとか。
http://tairyudo.com/tukan/tukan539.htm
敷地の様子は碧雲荘(野村證券所有)と少し異なっている。對龍山荘の敷地はこじんまりしている(一般的な感覚としては広いが)。その代わりに傾斜が大きい。このため、疎水から引いた水を用いて流れを作ることが容易である。對龍山荘の水の大きな流れには、滝と緩やかな沢の2つがある。この流れの対比が非常に面白い。
これらの水の流れは敷地下部の池に注ぎ、その後で敷地の外に流れ出て、他の庭園などの水として再利用される。棚田の水が他の棚田の水として再利用されるのと同じである。
庭の東側は南禅寺金地院であり、樹木が茂っている。このため、對龍山荘の庭園の境が紛れている。さらに奥には東山が見え、それが借景となって雄大な雰囲気を生んでいる。
また、園内の建物の二階からは遠くに黒谷の建物が見える。やはり借景の妙である。同じことは碧雲荘と永観堂の間でも見られた。
現在、黒谷の手前にコンクリートのホテル?があり、景観を損ねている。30年ほど前だったか、やはり借景で有名な郡山(当然、奈良)の慈光院を訪ねたが、元の借景は新興住宅街になり、完全に景色を台無しにしていた。對龍山荘はそこまで酷くなかったものの、京都市として考えなければならない時代に来ている。和服の市長はん、どこまで意識していることやら。
それはともかく、對龍山荘の値打ちは建物にもあった。目立たずに凝っている。とくに天井板が屋久島の杉で素晴らしかった。木材に関心のある僕として、その對龍山荘の天井板が最高記録を大きく塗り替えた。実は、母親の実家の座敷の天井板が屋久杉であり(どうやって入手したのか、爺さんから聞くのを忘れた)、それまで見た中で最高に近かったのだが、對龍山荘はそれを明らかに越していた。何回でも言おう、最高だった。
その天井板をはじめ、建物の懲り方が尋常ではない。明治時代、まだ天然木が比較的容易に手に入った時代に考えられるだけの贅を尽くしたようだ。「京数奇屋名邸十撰」に選ばれたというのも当然納得である。
何故見学させてもらえたのかはともかく、素晴らしい時間だった。文化を守るのは、時代や洋の東西を問わず、時の金持ちだと再認識した。似鳥さんにも「頑張ってもらいたい」と思った次第である。
2020/06/27