某記事(日経ヴェリタス、8/5号)に「日本企業の本社について、東京にある必要はまったくなく、地方が優れる」と書いた。何故そう考えるのか、簡単に紹介しておきたい。
日本企業が本社を東京に構えてきたのにはいくつかの理由がある。
1つは、東京圏に人が集まっているため、製品やサービスに対する需要が見込めるからである。人が多いから企業が集まり、企業が集まるから取引先も集まり、従業員も集められる。だから需要が見込める。需要の動向も的確に把握できる。企業の事業展開にとって良循環的な効果があったことになる。
もう1つは、そこに政府の行政機能が集まっていたからである。1960年代を中心とする高度成長期において、企業が重視したのは政府の経済政策であり指導だった。今では考えられないことだが、銀行には借入需要が殺到していた。それをさばいたのが政府の産業育成政策であり、日銀の銀行に対する貸出指導だった。だから、銀行はもちろん、企業としても、政府とすぐに往来できる東京に本社を置くことが最良だった。
その他、人口が集まるから、政府が立地するから、インフラの整備も東京圏が最優先された。だから利便性が向上し、それがさらに人口を集めた。
でも、コロナは東京圏への集中に水を差した。直接的には感染リスクが高いことである。さらに、東京圏って何なのか、意味があるのか、企業自身も疑問を抱き始めている。
もう少し言えば、日本全体の人口が減少しているため、企業は需要を全世界に求めないといけない。国内だけに頼っていると衰退する。だから、東京にいても仕方ないのである。東京も、世界的に見れば一地方にすぎない。
加えて、今の政府の産業政策がどれほど機能するのかも不明である。むしろ企業として、政府頼みは衰退かゾンビ化を意味している。
何年か前のシャープやジャパンディスプレイを思い起こせば十分だろう。あえて説明すれば、経済産業省上がりの役人を迎え入れたのに、結局のところ、前者は台湾企業の傘下に入った(それで良かったと思う)。後者は設立当初から粉飾決算まみれだった。高度成長期をイメージした政府頼りに、ろくな結果は待っていない。そう思えて仕方ない。
というので、発想を転換させ、「地方に本社を移転すればどうだろうか」と提言したいし、冒頭の記事にそう書いた。たとえば、工場を地方に保有している企業が多い。その企業の場合、主力工場もしくは研究開発的な機能を担った工場の近くに本社を移せばいい。
何がメリットになるのか。
国内はもとより、世界各国へ出かけるのに、交通インフラが発達した現在、地方でも東京でも大差ない。インターネットを用いれば、ちょっとした会合なら、いつでもだれとでも設定可能である。
ある企業に質問したところ、すでに訪問している企業なら、コロナ以降はインターネットでの会合が常識となったから、かえって(ネットで)会いやすくなったとのことである。確かに個人的にも、今までは現地に行かなければ出席不可だった会合も、「ネットでも参加できるようにした」というので、出席している。大いなる時間の節約である。
とはいえ、訪問したこともない先に、いきなりネットでの会合を申し込むわけにはいかないとの当然の答えもあった。その場合は、地方からでもいいので、出かけないといけない。この手間は、東京でも地方でもほぼ等しい。
要するに、東京本社にこだわることはない。必要なら、企業は東京に出張所を構えるだけで十分である。
東京を離れれば従業員も幸せである。通勤時間が短くなり、電車も空いている。自転車通勤、徒歩通勤も夢ではなくなる。
広い家を持てる。家族との時間も多くなる。子供の教育が心配になるだろうが、教育もネット活用の時代に入るだろう(文科省がさぼらない限り)。周囲に自然環境が豊かだから、子供の幅広い教育も実現する。医療も、簡単なことはネットの時代になる(厚労省が必要性をしっかりと認識し、世論形成すれば)。
買い物はネットを使えばいい。実店舗は、地方の方がかえって東京よりも広がりがある。
京都に住んでいると感じることがある。通常の場合、京都に入ってくる情報のうち、正しい情報の比率が高いことである。少し説明すると、正しい情報の数は多少少なくなるのだろうが、どうでもいい情報、変な情報、偽っぽい情報の数が相当減る。一言で表現すれば、ノイズが少ない。ノイズが少ないと、世の中の大きな動きを客観的かつ比較的正しく把握できるようになる。
コロナは、日本がどこにいるのか、日本として、その中の企業として何をすべきなのか、このことを考えさせてくれた。この意味で(他の意味では別だが)福の神だと思える。
なお、以上が偽情報でない証拠として、冒頭の記事では「東京を嫌い、無視してきた京都企業の成功例」も書いておいた。このことは、後日、機会があれば書くこととする。
2020/08/12