この時期、戦争のことを思う。戦後の生まれながら、物心ついた頃、まだ父親は戦争から帰って10年も経っていなかった。日本軍が降伏した後、ビルマでイギリス軍の捕虜となった。帰国のためラングーン(ヤンゴン)を出港したのが1947年4月とある。
子供の頃、1960年前後だが、インパール作戦から戻れた戦友たちが年に数回集まり、我が家で酒を飲むのが常だった。狭い家だから、子供も一緒に食事をするしかなく、よくわからない地名がたくさん登場する思い出話を聞かされた。もちろん、多くは聞き流すだけで覚えているはずもないが。
父親は熊本の予備士官学校を経て将校(少尉?大尉)になったから、戦争に駆り出されたものの、映画に出てくるような酷い状態ではなかったようだ。1940年7月、上海、南京を経て中国安徽省近辺に配属された。43年1月、帰国できるかと船に乗ったところ、シンガポール、クアラルンプールを経てビルマに向かわされたとある。
中国の2年間少しはまだ日本軍に勢いがあり、細かな戦闘が続くだけ。負傷もしたらしいが、将校だったから、そこそこの生活を送れたらしい。
しかしビルマの2年間少しは、将校といえども悲惨だったとか。インパール作戦の一環でインドのコヒマまで進軍し、そこでの戦闘で足に大きな傷を負った。もっとも、このおかげで少し早く最前線を離れられたのが幸いだったと、いつも話していた。
食べ物としていろんな物を口にしたとか。ネズミが一番食べられる、猫は不味いと言っていたのが、その当時の食事を象徴している。数年前、ラオスの食べ物屋でネズミのローストを見たとき(食べてはいないが)、父親の言葉が真実だと思った。猫のローストはなかったし。
そんなことを思い出す度に、戦争の悲惨さが脳裏に浮かぶ。
これまで旅行した中に、戦闘状態に陥った国がある。イエメンである。そこの離島、ソコトラ島を離れる前日の夜、島民20人くらいと一緒に小高い丘に車で登り、宴会をした。彼らが今どうしているのかと思うと暗い気持ちになる。本土から遠く離れているから戦闘になっていないかもしれない。しかし、自給自足できる島ではないから、食料品やガソリンの調達をはじめ、生活は悲惨なことになっているだろう。すぐ近くの国はソマリアだから、そこからの輸入も疑問である。
イエメンでの戦闘はサウジとイランの代理戦争みたいなものである。両国は宗教というか、イスラムの中の宗派が異なる。文化も違って、イランからすれば、サウジは田舎ということだろう。でも、そんなのイエメンの多くの住人には関係ないことだし、ソコトラ島にそんな対立の気配は皆無に近かった。
国のトップがトップの座を下りる時、ほぼ確実に死が訪れる。アフリカや南米の国でいくつもの実例がある。だから内戦になりやすい。その内線に付け入る外部勢力があれば、戦争にまで発展しかねない。そのことを当然、国のトップは知っているから、強権的になり、独裁的になる。と、その国のトップを引きずり下ろすには、ますます暴力に頼らざるをえなくなる。
と、ここで思うのは、サルの世界である。ボスの座を喧嘩で追われたサルが森の中に消えていく。でも、まだ殺されないだけましかもしれない。孤独地獄が待っているだけだと思えば、牢屋に入れられるのに近いのかもしれないが。
野良の犬や猫は縄張りを巡って喧嘩をする。要するに餌のためである。でも、人間のトップは(トップになるような人間は)、たとえ貧しい国であっても食物には困っていないはず。とすれば、何のために喧嘩(内戦や戦争)をするのだろうか。
本当に不思議である。
2020/08/16