川北英隆のブログ

農作業としての柿の収穫

残念ながら農作業をほとんど経験していない。思い出すと、柿、葡萄(デラウエア)、苺の収穫、稲刈りの後の手伝いくらいか。
葡萄と苺は親戚が作っていた。遊びに行き、そのついでに少しだが手伝った。大人から見ると子供の遊びの延長だろうが。
稲刈りを手伝ったのは、はっきり覚えてはいないのだが、多分、熟柿を探しにいったついでだったと思う。父親の取引先だったメリヤス屋(森本メリヤス)の社長が癌のため余命いくばくもなくなり、「子供の頃によく食べた熟柿をもう一度食べたい」と言ったらしい。育ったのは高見山(高見峠)を三重側に越えた櫛田川沿いの山間部だったと思う。
森本メリヤスを切り盛りしていた女性(大谷さん)からそれを聞いた父親が、「親戚に残っていないかなあ」と言う。僕が探しに行くことになった。確か高校生だった。天理の親戚まで自転車で1時間程度である。母親の実家で熟柿は見つかった(そのはず)。
その日、刈って干してあった稲の脱穀作業の時期だった。脱穀機を田に運び、それに稲穂を通していた。爺さんもいて、(体が弱いとかで昼寝が趣味だった)婆さんを除いて一家総出だった。柿だけもらって帰るわけにもいかず、夕方まで稲運びを手伝い、少しだけ脱穀も体験した。体中に稲穂や籾のかけらが付き、痒かった。1日だけでも大変な作業である。
柿の収穫は郡山の実家での行事である。富有柿(甘柿)と渋柿が1本ずつある。毎年伸びた枝を切っているから、あまり大きくない。それでも豊作の年は山ほど実る。
今年も柿を収穫した。
富有柿は1つしかなかった。少し小ぶりながら、店で買うよりもはるかに美味いのにと、残念である。昨年も不作だった。2年続けて不作は珍しいので、次回実家に行くときには原因を調べ、除去したい。
渋柿は豊作だった。まだほとんど熟柿になっていない。それを収穫すると大きめのリュックに満杯である。15キロ以上(普通に持てたから20キロはない)を担いで自宅に帰った。今日は渋抜きをする予定である。
柿は、とくに渋柿は、ほぼ手入れなしである。それでも2本の柿が豊作の年は、収穫にまる一日かかる。収穫して柿を持って帰るのも一苦労である。翌日、普段使わない筋肉が悲鳴を上げる。
農業を本業としていれば、柿の収穫なんて「ちょろいもん」だろう。でもと、思い出したのは兼業農家だった父側の叔父が柿の収穫をしていて枝が折れ(柿の枝は脆い)、骨折したことである。さらに思い出したのは、渋柿を干し柿にするのを楽しみにしていた母親が、晩年になって「皮を剥くのが大変」とこぼしていたことである。
何事もプロは大変なのだが、肉体労働に頼る農業は(林業もそうだが)とくに大変だと思う。僕には絶対できないと自覚している。
写真は収穫した今年の渋柿である。60個はある。これでも高い枝になっていた実と、小さな実を、この半分以上の個数はあっただろうか、鳥の冬の餌として残してきた。
20201101収穫した渋柿.jpg

2020/11/01


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