川北英隆のブログ

高取山から土佐街道を

芋ヶ峠から高取城址の最初の石垣まで60分、その石垣から天守跡の三角点まで40分だった。トンネル横の登山口から4時間5分経っていた。
本丸跡の南側に座り、大峰の連なりを眺めながら昼食にした。大峰山から稲村ヶ岳、少し離れて弥山の展望があった。大峰山と稲村ヶ岳の間に大普賢の一角が頭を出していた。山頂付近は少し白く、雪が降ったようだった。
下りは、壺坂寺経由が一般的だが、今回は国見櫓での展望を楽しみつつ、土佐経由、壷阪山駅まで歩くことにした。まあまあ整備された道を10分少し下り、道標に従って左手に入ると国見櫓である。名前のとおり、国(奈良盆地)と、遠く京都方面も見えた。
国見櫓からさらに10分少し下り、二ノ門跡、水堀、猿石に出る。ここからは植林の中の本格的な下りとなる。道は整備されている。猿石から宗泉寺(高取藩主の菩提寺)入口まで25分、そこから車道となる。城下町だった土佐の町並みをぶらぶら歩き、近鉄壷阪山駅に出た。宗泉寺入口から50分、高取城址から105分かかった。
高取城址は砦的な城から始まり、筒井順慶、羽柴秀長の時代に(大和)郡山城の詰の城(戦の時の城)として大改修されたとのこと。
M君の説明によると、羽柴秀長の知行は100万石に相当していたとか。その財力をバックにしたので、大きく立派な城になったようだ。それが明治政府によって城の廃棄が決定され、明治6年に入札、主要な部材が売却された。残された部分もその後朽ちたらしい。
土佐には、当時の武家屋敷の一部や、城から移築した建物が残されている。かつての城の写真もある。それらの資料を元に、当時の城の姿が描かれていた。その城は芙蓉城と呼ばれていたとある。残っていれば姫路城に匹敵しただろう。
城址には無数の瓦のかけらが落ちている。石垣には木々が根を張り、崩している。アンコールワットとその周辺の寺院遺跡を思い出した。明治維新、文明的な大転換はともかくとして、廃仏毀釈を含め、それまでの文化を否定したのはどうだったのか。アベノマスクへの予算を高取城の石垣修復に回せば、きっといい事業になっただろうにと思えた。
上の写真は城址からの大峰の展望、中は国見櫓からの二上山方面、下は芙蓉城である。
20201114大峰の展望.jpg

20201114国見櫓からの二上山.jpg

20201114芙蓉城.jpg

2020/11/14


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