川北英隆のブログ

地方からの離脱は日本の損失

日本は変な国だと、山間部を歩く度に思う。最近行く山は、1つは大阪府や京都府の周辺地域である。大阪の能勢(のせ)や京都の園部などを挙げておこう。もう1つは滋賀県の、少し中心を外れた地域(琵琶湖周航の歌に登場する今津=高島、長浜など)である。
山からの行き帰りに、GoToキャンペーンって何の意味があるのかと感じてしまう。というのも、そんな地方部や山地にこそ人出があればと願うのだが、誰一人というほど見かけない。まあ、そのおかげで、コロナにもかかわらず堂々と歩けるのだが。
菅さん、ジャガイモ顔と言われているらしい。そうだととすれば、その顔、彼が当初に打ち出した地方創生とマッチする。でも、その地方創生、コロナに隠れて影が薄い。新聞を読んでいて届いてくる情報は、「地方銀行をどうする、こうする」だけに近い。
山のついでに見えてくる地方は悲惨である。2車線の立派な県道を30分近く歩いていて、ふと思ったことがある。「この道、使っているのは僕一人かな」と。
人家がある。でも、住んでいるのかどうか不明に近い。外から見える多くの部屋は、雨戸が閉まっているか、カーテンが下ろされている。軽四が広い庭に停まっているから、誰か住んでいるのだろうと推察するものの、爺さん婆さんだけかもしれない。
田畑だが、獣避けのための鉄の柵がある。でも柵の中はというと、雑草の生え放題である。よく見ると柵も錆びている。
要するに耕作を放棄したのだろう。そう思ってもう一度見ると、田や畑として使われている面積が極めて少ない。立地の良い田畑を自分達の食料用として耕し、それ以外は労力がないからと放棄したようだ。
そんな民家や田畑、山奥かというと、そうでもない。車で15分も走ると鉄道の駅がある。その鉄道はというと、電化されている。とはいえ、通勤通学の時間帯以外は1時間に1本なのだが。
乗客が少ないから運行本数を減らす。本数が減れば不便だから、住民が去るし、住んでいても利用を敬遠する。と、ますます本数を減らさないといけない。こんな悪循環も生じていそうだ。
これでは、地方銀行の経営が行き詰まるのは当然である。産業も消え、住民も消えた地域なのに、「経営努力が足りない」と叱咤されている。僕が経営者なら、「そんなこと言われても」ということになるし、「地方経済、何とかテコ入れしたってんか」と要望したくなる。
そんな地方のタクシーの運ちゃんと話したことがある。「コロナの時代、何で大都会に住まんとあかんのやろ」と。都会であれば、隣の声が聞こえそうなアパートに住まないといけない。ちゃんとした家に住めたとしても、えらく高くつく。住むために働くようなものだ。
地方であれば広い家に住める。今ではネットでいろんな物が買える。広い庭があれば、野菜は自家製かもしれない。コメは、近くの農家で買え、しかも、スーパーの氏素性のわからないコメよりはるかに美味い。病院は、オンライン診療を要望し、できるかぎりリアルな病院に行かないようにすればいい。教育もオンラインの多用である。
裏返せば、地方に住まないのは大きな損失である。機会損失、つまりせっかくの豊かな生活のチャンスを逃していると表現できる。日本全体が、その機会損失を味わっている。
最大の問題は地方で働けるのかどうかである。この点、政府や企業がネットをフル活用することで、オンラインでの仕事環境の整備を進めることである。最終的には企業が地方に移転すればいいのではないか。
菅さん、地方創生を打ち出すのなら、企業を大都会から地方へと追い出す大胆な政策を打ち出すべきである。都心に拠点を構える大企業に重税を課してもいい。以前(12/18)書いたように、通勤超過勤務手当を制度化してもいい。ついでに、オンライン診療と、オンライン教育を、強引でもいいから推進すべきである。
そうすれば、菅さんの株が底打ちし、上がるだろう。地方銀行に「しっかりせえ」と命じるのは、地方の現実を見るのなら、弱い者いじめである。本当のパワーを持っている大企業、医師会、教職員に、「言うことを聞かないのなら、酷いからな」と宣告するのが本筋だろう。

2020/12/30


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