今日、新聞の広告を見て思い出した。最近よく見かける「勤怠管理」が活字にあった。この用語、変である。雇い主の身勝手な用語なのに、それに誰も腹を立てないのも変だ。
雇い主として、被雇用者が働いているのかどうかを管理したいのなら、普通に「勤務管理」でいいのではないか。従来なら「出勤管理」でもよかったのだろうが、在宅が織り混ぜられると「出勤」は通用しない。
日本語としての勤怠とは、勤務しているか怠けているかである。広辞苑によると「勤惰」とも言い換えられている。
勤怠を管理するには、カメラで被雇用者を常に映し出し、見張らないといけない。そこまでのことを考えている企業はどれほどあるのだろうか。知る限りでは皆無である。だから、まずここで変だと思ってしまう。
もちろん、そこまで考えた本当の意味での「勤怠管理」があるのかもしれない。でも、席を立たず、居眠りもせず、ずっと座っているかどうかを管理するシステムなんて、無意味そのものである。勤怠を管理するとは、誰が、どれだけのコストで、何を、どれだけ生み出したのかを計ることが本来の姿であろうが、それでもって「怠」だったと評価されると、「さぼってへんで」「一生懸命やったのに」と、文句の一つも出てくるのだが。
「働く諸君」と呼びかけ、提案したい。
勤怠管理とは、まさに労働者は怠けるものだとの差別的な目線である。少し極端に表現するのなら、奴隷労働の延長線上にある。雇い主として本当にそれを必要としているのなら、経営者の勤怠管理も必要だと主張してみてはどうだろうか。
2021/05/26