先日、元財務官、行天豊雄さんから通貨行政について聞く機会があった。2005年以降、世界の情勢について聞くことが何度もあったのだが、まとまった話しを聞くのは多分初めてだったと思う。感想は、「世界を相手に通貨行政に携わられただけのことがある」。
今年90歳になられた。「90歳は卒寿、だから卒業する」ということで、16年間務められていた東京フィナンシャルリサーチの主宰を降りられた。ちなみに、東京フィナンシャルリサーチとは、日本経済や金融市場についての分析レポートを会員向けに発信する組織であり、行天さんを含む財務官経験者が中心である。
「卒業」に当たって東京フィナンシャルリサーチとして行天さんにお願いをした。行天さんが国際金融局や財務官だった時代に世界の通貨制度が大きく変わったわけだから、その当時の回顧というか総括をお願いしたいと。大学において、定年退職する教員が行う最終講義である。
その結果、東京フィナンシャルリサーチの関係者が質問を持ち寄り、それを受けて行天さんが喋るという設定になった。質問を行天さんがどう受け止めたのかは不明だが。
前後するが、行天さんの大蔵省(現在の財務省)入省は1955年、退官が90年である。85年9月のプラザ合意(当時のアメリカの貿易赤字対策を目的とし、ドル高是正に向けてG5各国が外国為替市場で協調介入するとの合意)当時の国際金融局長であり、86年から89年まで財務官だった。日本の絶頂期というか、バブルの頃に円ドル相場の手綱を握っていたことになる。
(関西風表現として)面白かった点をいくつか書き留めておきたい。
敗戦直後、当時の東久邇内閣が「(国民全体の)一億総懺悔」「(天皇を頂点とする)国体護持」を掲げたことに違和感を持った。
コメント:行天さんとして言いたいのは、「責任転嫁って何」だろう。
日本が敗戦する前年(1944年)に連合国が(勝戦後の)為替相場安定のメカニズム、ブレトンウッズ体制を相談して決めたのだが、そのブレトンウッズホテルを(アメリカ留学時代に?)訪れた時、「当時の日本は戦争のことしか頭になかったのに、アメリカなどは先のことを考えていた」と、彼我の差に大ショックを受けた。ブレトンウッズ体制により、金・ドル本位制、実質的にはドル本位性というか固定為替相場性が整えられた。
戦後の世界は(日本も欧州も)、ブレトンウッズ体制に象徴されるアメリカの大盤振る舞いで復興し、繁栄していった。円で言えば、1ドル=360円は過小評価であり、300円くらいが妥当ではなかったのか。アメリカにおんぶに抱っこの時代が、71年のニクソンショックすなわち「ドルと金との兌換停止」によって終わった。
コメント:ブレトンウッズ体制が当時の日本にとって突如として終わったのである。四半世紀の間に生じた社会経済環境の変化を、日本は読み切れていなかったと、行天さんは感じているようだ。その読みがあったとしても、政治家は真剣に受け止めなかったのだろう。
その後もアメリカ経済の行き詰まり(貿易赤字)、対日経済摩擦が続き、85年にプラザ合意に達した。日本の首相は対米協調的だった。アメリカの要求(農産物を中心とする輸入制限の撤廃、均衡財政の緩和、輸出主導経済政策の転換、円安政策)に対し、日本は金融緩和政策で応えた。
87年頃、プラザ合意を支援するための金融緩和政策に関して、日銀は出口を探っていた。しかし、ブラックマンデーにより、出口が消えた。ブラックマンデーが主に欧米の政策当局者に対して29年の世界大恐慌を想起させ、当時の金融政策(引き締め)の失敗からの教訓もあり、ブラックマンデーが金融緩和政策を重視させた。
80年後半の資産価格バブルはこうして発生した。日本にとって、そのバブルが大きすぎたこと、人口減少時代が近づいていたこと、そして世界が新たな時代(デジタル)に向かっていたことが今に影響している。バブル崩壊後30年が経過した。この崩壊の過程から回復するには同じような時間が必要なのではないか。
コメント:日本経済停滞の背景に人口動態があるのなら、今生まれた子供が成人になるまでの年月相当の時間が、経済復興のために必要との考え方が成立する。
以上、90歳とは到底思えない明瞭な、とくに当時の関係者の名前が淀みなく出てくる話しだった(僕なんか一番肝心の山の名前すら、すらすら出てこない)。常に物を考えていると当然なのかもしれないが。
2021/06/04