日本はまじめである。その度が過ぎる。だから損をし、世界を牛耳れない。今日の日経に「金融庁が企業に対して気候変動リスクに関する情報の開示を求める」とあった。実現すれば企業はその規制に則して振る舞うのだろうが、投資家の大した利益にはならないかも。
このニュースは要するに、金融庁として、企業の提出する有価証券報告書に気候変動リスクに関する記載を求めたいらしい。コーポレートガバナンス・コードで記載された投資家への気候変動リスク情報の一部を、法制度に取り込もうという動きである。
気候変動リスクを投資家に示すことに異論はない。問題にしたいのは、日本の多くの企業にありがちな「情報は示したことやし、これで十分やろ、文句あっか」とのいつものスタンスへの予感である。
つまり、法律(たとえば金融商品取引法)やルール(たとえばコーポレートガバナンス・コードというルール)に従ったことに満足し、だれてしまう姿勢である。もっと言えば、「ルールがあるのなら、逆から見ればそこに利益を得るチャンスが転がっている」との発想を持たないことの貧困さである。この貧困さとは、企業に対するものでもあり、政策当局に対するものでもある。
法律やルールが生まれれば、それが経済や社会に歪みをもたらすのは当然である。新しい法律やルールとは、それ以前の社会を変えるために制定されるのだから、定義上、歪みをともなう。歪みが生じれば、そこに変化が生じ、それがチャンスとなる。さらには、法律やルールの先に、より新たな法律やルールが予見できる。もしくは、「今回の法律やルールは、将来の経済や社会に対する方向感を一歩確実なものにした」とも言え、その方向に向かうことによる非常に大きな利得が見える。
気候変動リスクが情報の開示によって誰の目にもクリアになれば、そのリスクを緩和し、回避するための方策の必要性が、言い換えれば企業はもとより社会全体に対して要請される方策の強度がますます高まる。そうであるのなら、リスクを緩和、回避するための抜本的な手段や枠組みを提供すれば、それが大きな利益を生み出すことはほぼ確実である。
思うに、日本の役所は農地を「食料を得るための資産」とみなしているが、その本質が「太陽光のエネルギーを炭水化物などに変えることにある」と悟るのなら、「これまでの農地や類似の不動産を活用して太陽光のエネルギーを電力エネルギーに変えることも、立派な農業の一種だ」と位置づけられていい。
もう少しヒントを出すのなら、地方を旅行すると耕作放棄された土地が大量にある。それも人家から遠くない。とすれば、その耕作放棄の土地に太陽光パネルを設置し、発電し、それを既設の送電線と繋げばいいのではないのか。その元農地に太陽光パネルを設置しないのは、設置できないのは、農水省と経産省や環境省との連携が不十分なだけではないのか。
熱海の伊豆山の地滑り災害は急峻な山地の開発と無縁でない。日本において、山地でなくても開発して有効活用できる土地は非常に多い。
金融庁としても、企業に対して気候変動リスクを開示させるだけでは役目を全うしていない。経営難に苦しむ(金融庁の管轄である)地銀を復活させるためにも、農水省、経産省、環境省とも連携し、リスクだけではなく利益を生み出せるような下地を作るべきである。一方の企業としてはその下地を利用するのは当たり前であり、むしろそのような下地を作ってほしいと声を大にして要望すべきである。
残念なことに今の日本には、リスクを避けよう、役所に目を付けられないようにしよう、怒られないようにしようとの意識が強すぎる。これに対して、もっと大局的な働きをしようとの意識は貧弱である。これもまた、役所に目を付けられ、怒られないためなのだが。
2021/07/26