メクラグモに差別語らしき単語が含まれている。そこでメクラグモが死語かどうか調べたみたところ、今はザトウグモと言うとか。どうしてザトウグモになったのかは不明ながら、座頭市のザトウも突き詰めると差別語ではないのか。
多分、メクラよりもザトウのほうが死語に近く、一般の理解が難しいということでザトウグモになったのだろう。「一緒やん」と思う。どうせ言い換えるのなら、「もっと抜本的に変えたら」と思ってしまう。
そういえばザトウクジラのザトウも、語源はザトウグモと同じだろう。
メクラグモとザトウと職業との関係を調べていると、宝塚市のサイトに「差別的な言葉や表現について考えてみましょう」というのに出食わした。一度アクセスしてほしいと思う。
さすが(?)関西の、かつ高級住宅街のある市である。もちろん僕らが子供の時に使った用語があり、今では悪かったかなというのもある。
しかし、ここで書いた「子供」も差別だとか。子供の「供」は供物のことであるから、「子どもと書くべきだ」とか。さらに「取り上げる」の「上」について、「上中下」を避けるために「取りあげる」と書き換えるとある。「ほな、上り列車、下り列車なんていうのはもっと駄目やん」と思う。「寝台列車の上段、下段」も駄目になる。
ここまで気にすると何も言えず、何も書けない。このブログではるか昔(2009.08.26)に引用したのが今道友信氏(美学者・中世哲学研究者)の次の文章である。「いわゆる差別語を、いわゆる差別語だとは思わない。差別しない語があるのか。認識は差別に始まり、定義は差別を目的とする」と。
つまり、書くこと、喋ること自身が、「これとあれとを区別すること」である。差別しない言葉や表現があるとすれば、それは曖昧模糊としたものでしかなく、何の役にも立っていない。
もちろん他者の欠陥を際立たせる用語を使おうとは、僕ももはや子供ではないので(一般にはジジイなので)思わない。とはいえ、かつての強烈な差別意識が消えた、もしくは差別する意図のない用語まで気にして使わないのも変だと思っている。
この意味で、宝塚市の一覧は馬鹿げた範囲まで含めている。
2021/09/04