川北英隆のブログ

偏微分ではなく全微分を

偏微分とは、特定の変数だけを少し動かし、それによって生じる変化を計算できるようにかする方法である。全微分とは、偏微分と異なり、すべての変数の動きによって生じる変化を計算可能にする方法である。それぞれにメリット、デメリットがある。
昔から気になっていることがある。それはルールや法律を金科玉条として扱う風潮である。ルールや法律には目的がある。その目的が変化すれば、ルールや法律が変わるのは当然である。
一方でルールや法律が一度定められれば、それを変えようとしない風潮が根強い。さらに言えば、ルールや法律には、それを提案し、制定した主体の意図が反映されている。その主体が「正義の味方」「多数の味方」とはかぎらない。この点に注意深くないと騙されてしまう。そこまで極端でないにしても、不利益を被ってしまう。
法律の事例として殺人を取り上げよう。殺人はどこの国でも重大な犯罪である。しかし、殺人が合法とされる例もある。戦争における殺人は極端だとしても、死刑、堕胎、安楽死など、れっきとした殺人を合法とする例がある。
なぜ一方の殺人が犯罪であり、他方の殺人が合法なのか。それぞれを規定した法律の具体的な目的が異なるからである。国(もしくは政治、国民の意識)によってどのような社会を目指すのかが異なり、死刑、堕胎、安楽死など認める国や政府と、認めない国や政府とに分かれる。また時代によって、ある殺人を認めたり認めなかったりと変化していく。
憲法でさえ地域や時代によって変わる。革命やクーデターによる大きな変更はともかくとしても、日本の憲法が敗戦によって変わった。第9条を横においても、非常時の国の権限や選挙制度などに議論が生じるし、他国において憲法が修正されることは稀ではない。
ましてやルールや各論に関する法律は絶対ではない。時代や環境によって、また経済の変化や技術の進歩に応じて、望ましいルールや法律が変わる。だから常に見直しが求められる。
では現実はどうなのか。何か新しいことを提案すると、すぐに「法律が」「ルールが」「前例がないので」と反論され、そこで議論が止まる。この場合の「前例」とは一種のルールとなっている。
コロナ禍での事例でいえば、オンライン診療が代表的である。看護師によるワクチン接種もそうだろう。PCR検査キットのオンライン販売もあった。どれもこれも法律がネックになって日本が後進国とみなされつつある。裏には法律を盾にして既得権益を守ろうとする勢力がいる。
別の事例ではオンライン教育がある。対面の授業と、オンラインやネット教材を用いた教育とを併用すれば学習が進むはずなのに、義務教育ではその動きが鈍い。10万円給付をする予算で併用授業のためのインフラや教材の充実を図れば将来の日本の発展に役立つはずなのに、ルールや「これまでの方式のほうが望ましい」という教育委員会や学校側の固執によって、オンラインやネットの利用が阻まれているようだ。
ルールや法律を作る側と、ルールや法律に縛られる側の両方が、「これでいいのか」と常に考え、「他の方法がある」と気づいたのなら、ルールや法律を変えるように動くべきである。つまり、ルールや法律は動かせるものだと常に意識することが求められる。
ルールや法律を絶対的なもの、変えられないものとして議論し、そのルールや法律の中での最善の方法を見つけるのは「偏微分」方式である。「偏微分」方式が役に立たないとは言わない。「偏微分」方式のメリットは、動かせない(当面動かさない)ものと動かせるものとを峻別することから生じる。それによって議論を明確化できる。しかし、その議論の結果、最適な答えが得られるとはかぎらない。
「偏微分」方式で議論した後、次の段階で考えるべきは「全微分」方式である。動かせないものとしていたルールや法律を動かせば(変えれば)、もっと実情に適した答えが出てくるかもしれない。
もう少し言うと、「全微分」方式は頭を柔軟に働かせる方法である。「偏微分」方式が頑なな方法であるのとは大きく異なる。もっとも「全微分」方式はチャランポランになりやすいから、通常は「偏微分」方式が使われる。とはいえ、行き詰まった場合や変化の時代には、「全微分」方式に分があるのではなかろうか。

2021/11/23


トップへ戻る