川北英隆のブログ

思い出した名松線の山行

松阪の堀坂山に登り、帰りにJR名松線の線路を渡り、ふと「これに乗ったな」と思い出した。いつだったのか、どの山に登った帰りだったのか。簡単に思い出せなかった。
まず名松線の名はどこから来ているのか考えた。名松線は松阪から西へと山中に入り、奥津(駅名は伊勢奥津)までである。単純に考えると奥松線になりそうである。そもそも奥津まで線路を付けた理由がよくわからない。調べると、松阪と名張を結ぶ計画で名松線としたのだが、それが奥津までで止まったとか。昔の大和と伊勢を結ぶ街道を鉄路でとの計画だったようだ。
その名松線、今では2時間に1本程度しか列車が走っていない。その名松線に乗った当時でも、1時間に1本あるかないか程度だったと思う。とすれば、東京勤務になって以降に名松線を使うなんて到底考えないだろう。誘われたとしても難色を示しただろう。
名松線に乗ったのは奥津から、つまり下山してからだったと記憶している。当時でも「こんな奥地に国鉄が」と思った。関西に住んでいても、山を計画するまで知らなかった。その計画を組んだのは、最近一緒に山を歩いているM君だったように思う。
そこで地形図を見て、奥津付近の山の名を調べ、登山記録と照らし合わせたが、それらしい山名が出てこない。もう一度地形図を見直したところ、奥津の南西に1021.4mの三角点がある。関西で1000mを超えるピークは貴重である。しかもよく登られている。
「名前は何や」と調べたところ、学能堂もしくは岳の洞(がくのどう、たけのほら)である。「ああ、確かに登った」と気づいた。
登山記録に戻ってみると、1974年5月にM君と登っていた。会社に入り、大阪で勤務していた時代である。給与をもらうようになっていたので、多少遠出しても金銭的に困らなくなっていたのだろう。
どう入ったのか。近鉄名張駅からバスで倶留尊山の登山口である太郎生(たろう)方面に入り、岳の洞に登り、奥津駅に下りたのだろう。日帰りだったのは確かである。
詳しいルートは今となっては不明である。どんな山だったのかも覚えていない。奥津駅の光景だけがかすかに目に浮かぶ程度である。奥津から乗った記憶が残っていることといい、かなりの驚きだったのだろう。

2021/12/25


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