郡山(当然、福島ではなく大和)の老舗を紹介したついでに、もう1つ、赤膚焼のことを書いておきたい。郡山近辺では有名である。そうそう、中島の源九郎餅と菊屋の饅頭は何回か書いたので今回は省略である。
赤膚焼とは郡山というか西ノ京の西側で取れる陶土(粘土)を陶器に仕上げている。平城京の五条付近なので、五条山と言われる山の土である。
古くから都があったので陶器が必需品だったと思える。そんなに(素人目ながら)上等な陶器とは思えないが。
郡山近辺には2軒だったと思うが、窯元がある。1つは尾西楽斎の窯である。小学生の頃、何代目か知らないが、その窯元の息子が同級生だった。当時、「ええとこの子」の常としてのドラだったので、皆で「そんなんでは跡を継げんで」と噂していた。
どうなったのかと思って検索すると、ちゃんと跡継ぎがいたようで、先に示したようにホームページもある。場所は昔のままのようだ。
最も現在の尾西楽斎氏(八代目)も先代も、僕の同級生よりもかなり年下である。同級生がどうなったのかは不明のままなのは少し寂しい。
この尾西楽斎氏の窯には小学校の時、学校行事として作業場見学に行った。大きな粘土の塊があったのだけを覚えている。その後、近くの山に遊びに行ったついでに粘土を持ち帰り、陶器の形にしたのだけ覚えている。その後はどうなったのか。ほったらかしに決まっているが。
もう1軒は小川二楽氏である。こちらも、窯は今も郡山にあるのだが、行ったことがないのでわからない(グーグルマップで見ると五条山の続きのようだ)。父親が二楽氏の作品を持っていて、それが唯一の記憶の源である。
尾西楽斎氏に戻ると、確か小学校の卒業記念だったと思うが、赤膚焼の山形の文鎮をもらった。前に書いたように、書道の道具は僕にとって猫に小判なため、父親に巻き上げられた。萩焼のように水が染み込みやすい材質のため(それが赤膚焼の一般的な性質かどうかは不明)、文鎮の一部に少しだけ墨が付いている。
筆を載せた時、毛の先が振れたのだろう。郡山の毛筆と郡山の赤膚焼の接点である。
2022/09/29