川北英隆のブログ

記憶社会の事なかれ主義

1/9の日経新聞に「攻めなき日本の薬事行政」という特集があった(よく日経新聞を読んでるやん)。要するに、結論ありきの外部有識者による審議制度と、事なかれ主義の制度運営に対する批判記事である。
その記事にかぎらず、いろんな行政で事なかれ主義を感じる。「でもね」とさらに思うのは、日本の企業も同じ轍を踏んでいるのではないのか。何か新しいことを提案すると、「そんなことは今までになかった」と第一声を発する企画や事務部門がその典型だろう。過去の記憶というか記録が金科玉条と化している。
何回かそんな仕打ちを受けた提案者は、いずれいなくなる。何割かは組織外に逃げ出す。こんなことでは、変化が激しい現実において「不戦敗」が多発する。
日本の社会は学歴社会であり、その学歴の主要部分は記憶力に依存している。「なんちゃら大のクイズ王」なんてメディアのタイトルを見ただけで唖然とする。「その能力を他に使わないと、なんちゃら大が泣くで・・すでに泣いているかな」と思う。
それはともかく、記憶の重要性を否定しはしない。とはいえ今の時代、人類にとっての外部記憶装置が充実している。パソコンやインターネットである。そんな状況において、微に入り細に入りまで記憶することに何の意味があるのか。将棋や囲碁において、最近は記憶の重要性が増しているのだが、記憶力だけでは負けてしまう。最後は思考力が物を言う。
記憶とは何なのか。考えるためのヒントであり、足掛かり、手掛かりである。
過去の事例も同じである。よく似た事例があれば、考えないといけないことが少なく、事がスムーズに進むことになる。なければ筋道や方法を考え、コストなどのデメリットと、その逆のメリットを想定し、最終的に実行するかどうかを決断する。それを端から前例がないと否定するのは、思考停止したに等しい。
前例とは、当時の環境に適合した事例だろう。過去と現在では環境が変化している。だから過去の事例をたどっただけでは、現実には「間違っていた」と反省することが多発する。前例と全く同じようにことを上手に運べる事例は皆無だろう。そこまで考えずに「前例がない」とか「前例を踏襲すべき」と主張するのは、「猿真似をせよ」と言うに等しい。「サルさん、ご免ね」だが。
もっとも前例主義の社会では、失敗したとしても「前例をなぞっただけ、失敗するなんて考えてもいなかった」と言い訳できる。だから「事なかれ主義」の社会になり、「そうか仕方ないな、前はうまくいったのになあ」と、誰も罰せられない。
本当は「前例を現時点で選択することが正しいのかどうかを、猿並みに何も考えなかった」という意味で、不作為という重い責任が生じている。経済学的に言えば、少なくとも機会損失が生じている。
前例主義とは、記憶にだけ頼った行為であり、思考放棄である。クイズ社会でもある。そんなクイズ脳で成功するのなら、インターネットとパソコン連合の大勝利になる。

2023/01/10


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