AIの登場により、単純作業に近い仕事が人の手から奪われる。そんな懸念が広がっている。実際、アメリカではじわりと解雇が進んでいるらしい。その解雇の是非を問う必要があるとともに、解雇が広がるのなら対応が必要となる。その最たる分野が教育である。
考えてみれば、電卓、ワープロ、パソコン、インターネットの普及は仕事を大きく変えてきた。
電卓はソロバンの達人を不要とした。さらには複雑な計算を簡単にした。僕はその恩恵を受けた。サラリーマン時代が電卓の普及とともに始まったのは幸いだった。プログラム電卓をすぐさま買った。
ワープロは達筆を神棚に奉った。悪筆というよりは「ミミズ流」と称された僕はワープロに救われた。
小学低学年の頃、未舗装の道で泥遊びしていると、名家の1年上のボンボンが、「そんなことしたらあかん、習字を勉強するが先や、大人になったら困るで」と注意してくれた。確かに、サラリーマンになって最初に係長に言われた仕事が清書で、僕なりに「頑張った」のだが、二度と同じ仕事は来なかった。
清書なんてやりたい仕事ではないから、内心助かったのだが、その一方で長い間、葉書や手紙を書くことにも入り込めなかった。その一種のコンプレクスがワープロの出現によって99%解消された。
ワープロ時代の上司が、「ワープロって川北君のために登場したようなもんやね」と機械を絶賛していた。その上司には僕の作った資料を清書してもらったことがあったので(上司の上司が「このきちゃない資料を講演で使いたいので清書しろ」と上司に言ったからだが)、「はい、すみません」と答えるしか術がなかった。
パソコンやインターネットによる仕事の変化は多くが経験しているだろう。1つ事例を挙げれば、図表の作成である。かつてグラフを作るのは非常に大変な仕事だった。方眼紙を使い、点をプロットし、最後に定規を使って線で結ぶ。これで折れ線グラフができる。棒グラフなんて面倒過ぎて・・。ましてや見え方が悪いので書き直すのは、よほどのことがないかぎり「お許しを」だった。
それで本題のAIの本格登場だが、それによってまず薄れるのは「記憶の威力」である。
今でも記憶の重要性は怪しげになっている。今後、AIが膨大な知識を瞬時に検索してくれるのなら、もはやヒトが記憶すべき事項は基本部分だけになる。まだ当分、AIが推論を含めた論理の展開の領域には本格的に参入しないだろうから、ヒトはその残された分野に能力を集中すればいい。
仕事で言えば、まず法律である。条文や判例の引用なんてAIに任せればいい。専門家の腕の見せ所は、その後の解釈である。
医療も法律に似ている。検査結果の評価や判定は、基本部分はAIのほうが優れているだろう。医者が登場するのはAIが判定を迷う境界領域であり、患者の体質にあった措置や手術の分野だろう。
当然、教育も変わる。歴史は荒筋だけで十分である。法律は条文の背後にある法理論が重要となる。医学はAIを確かな助手にする方法が重要となる。小中高の科目ごとの時間配分は激変する。大学では、各学部の位置づけと定員、学部相互間(文系と理系)の関係を再構築しなければならない。
この新しい流れに溺れてしまう弁護士や裁判官、医師、そして大学教員が当然いるだろう。そんなのは真の専門家ではないのだから、切り捨てればいい。そして新しい流れに適応した者に門戸を開けばいい。多分、なんちゃら会と称して既得権者から非常に強い抵抗があるのだろうが、それを説得し乗り越えるのが本当の政治家である。
乗り越えなければ、日本がAI後進国に落ちこぼれる。政治はAIが参入しない最後の領域であり、ひょっとして非常に困ったことなのだが。
2023/05/28