70年間以上も生きていると、世の中の酸も甘いも見えてくる。同時に悪知恵も知る。一方で日本経済の大いなる復興と繁栄、その後の衰退の兆しを体験してきたため、日本社会の欠陥にも思いが至る。結論は、正しく捨て去ることが不得手な社会、それが日本だろう。
普段は何一つ捨てることができない。それは僕も一緒である。すべてに愛着がある。ある物を捨てることは、自分の手足をもがれるに等しい。それに明日は明日だとの思いも強く、ひょっとして今日のゴミには、明日の日の出とともに生気が甦るとの密かな期待もある。
実際はというと、もちろんゴミにも多少の値打ちがある(昔なら、ゴミ屋さんが申し訳程度だが、何円かのお金をくれた)。捨てるとは、ゴミに潜むすべての価値を捨てることを意味するから、何らかの損失を生み出すのは確かである。
とはいえ、捨てることによって新たに生み出される価値に光を当てないことには、捨てることの損得を完全に評価したことにならない。たとえば、ゴミの保存には(腐らないようにするための努力には)、相当のコストが支払われる。人件費が代表的だろう。ゴミのために配置された人材を他の業務に充てれば、もっと大きな社会的な利益が得られる。ゴミの保存には、この得られるはずの利益の放棄が常につきまとう。この利益の放棄を機会損失という。
ゴミを保存することの利益と、それによって生じる機会損失との比較が重要となる。機会損失の方が大きければ、ゴミを捨てようとの判断が得られる。
例えば、ある企業を倒産などで廃業に追いやった場合である。倒産するのはその企業の事業がある意味でゴミだったからだろう。しかし大企業の場合、政府はその企業の廃業を阻止しがちである。その政府の決定は「ゴミを捨てない」というか「ゴミを出さない」ということである。最近では東証での上場廃止が少なくなった。これも、できるだけ「ゴミを出さない」との上の政府の基本方針と合致している。
しかしここに大きな機会損失が生じる。何回も引用したと思うが、某有力企業の経営者が「国内は過当競争で、十分な利益が得られない」と嘆くのも、捨てられないゴミ企業が多いという意味で、根底に機会損失がある。
教育も同様である。必要性の薄れた学校、大学の学部を実際には生かし続けているため、教員が不足し、さらにその質が低下している。教育予算もバラマキになっている。その影響を受けるのが生徒や学生である。学校や教員は、たとえ社会的な役割や貢献が少なくても、当座のところ生き延びられる。
日本が人口増加社会であるのなら、多少の無駄も許容範囲、大きな影響を感じないのだろうが、人口減少社会の場合、人材の無駄使いの許される余地が少ない。人口が減少する日本を繁栄させるのは、機会損失を意識し、まずはゴミを思い切って捨てる行動ではないのか。
もちろん人材の場合、焼却という選択はなく、次の仕事にすばやく就けるための政府の対応が求められる。つまり、捨てるには、捨てるための準備が求められる。
2023/06/27