川北英隆のブログ

中高と奈良市内散策

ナンキンハゼで中高時代を思い出した。当時、1駅だが列車を使った通学だった。関西本線の郡山と奈良の間は5分、ディーゼルカーだった。小学校高学年の時(1961年)、複線化され(戦時中に単線化されていたらしい)、蒸気機関車でなくなっていた。
中高は奈良女子大学の付属だった。正確に書くと、当時は奈良女子大学文学部の付属だった。1学年150名、男と女が半々、中学から高校に上がる時、40人(?)の入れ替えがあった。以上が以下の文章の前提である。
国鉄奈良駅から中高のある紀寺町までは市内循環バスがあった。最初は13円だったと記憶している。しかしバスに酔うので(繊細だった?)、すぐに奈良駅からの徒歩通学に変えた。
駅から学校まで約3キロあり、行きは軽い登り坂だったから40分程度かかっただろう。帰りも当然徒歩である。行きと帰りでルートを違え、奈良の町を楽しんだ。今でも時々その奈良を歩く夢をみる。
中高の近く、高畑(たかばたけ)には志賀直哉が住んだという家があったが、通学路から外れていた。一度くらい前を通った程度か。奈良教育大学も近かったが、構内に入ったことは当時も今もない。
通学の行きは、ほぼ最短距離のルートを選んでいたため、観光で有名になったいわゆる奈良町の中心部を歩いた。ごちゃごちゃした迷路感が好きだった。夢に出てくるのは、その迷路である。最近もう一度歩いてみると、町家の雰囲気がすっかり変わり、がっかりだった。
帰りは適当に、大きな遠回りはしないものの、気分次第で歩いた。よく歩いたのは浮御堂と荒池を経由し、三条通りに入るルートである。猿沢池と興福寺の間の坂道を下ると、すぐに駸々堂という大きな本屋に出た(今はない)。そこで本や地図を見て、やおら三条通りを下り、国鉄奈良駅に向かったものだ。時々だったが、国鉄奈良駅や近鉄奈良駅を使って通学している友達と一緒に帰った。
さらに思い出すと、通学途中に同級生の家があった。東大寺の偉いお坊さんの娘(どう書いていいものやら、女の子や女子ではお坊さんとそぐわない)がいた。その東大寺に立ち寄ったのは年に1回程度だったが。町中にある十輪院の娘もいた。その寺の前はよく通ったが、中にはいったことは未だにない。
そうそう、町中にあった大きな紙屋さん(?)の娘もいた。中学の時、彼女に怒られた。髪を掻いたところ、「汚い、フケが飛ぶ」と、真後ろから声がした。
町中に住む男の同級生の家に遊び行った。一人は奈良のメイン通りにあった茶舗(お茶屋さんと書くと紛らわしい)の息子、OM君だった。店の上が住居になっていたと思う。もう一人はお母さんが保険の営業員をしていたOD君で、いわゆる鍵っ子だった。両方ともたわいもない話をしたのだろう、訪問した程度しか覚えていない。
彼らとは中学校だけ一緒だった。OD君とはその後も付き合いがある。彼は長らく日刊木材新聞社の社長の座にある。
もう一人いた。高校から一緒だったTこと故田中義廣君である。家が大阪の瓢箪山駅だったため遠く、いつからかは知らないのだが奈良市内に下宿していた。そこへ1回だけだが、何人かと一緒に遊びに行った。
さらに思い出した。高校の時、隣に座っていた女子(娘とのイメージではない)の教科書を、何故か誤って持って帰ったことがある。中間か期末試験の前日だったので電話をし(当時はおおらかな時代で、住所や電話番号を記した名簿が配られていた)、中間地点だった近鉄西大寺駅まで届けた。
その女子は大人しいイメージだったのだが、何年か前の同窓会で会うと豹変していた。何が彼女をそこまで変えたのか。怖くて質問できていない。
最後の記憶は奈良市内の散策とは関係ないかな。でも広い意味では西大寺は奈良市だし。去年の昨日、突如有名になった土地にまつわる話でもある。お許しを。

2023/07/09


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