川北英隆のブログ

総護送船団方式は終わったか

長い間、金融業界は護送船団方式だった。最も弱い金融機関を基準に、落ちこぼれが出ないよう行政指導されてきた。それなのに1990年代、大手証券会社や大手銀行があえなく破綻した。その後も日本の金融機関は冴えない。何故なのか。当時の教訓は生かされたのか。
1997年、大手4社の一角だった山一證券と、戦前は特別な地位を与えられていた北海道拓殖銀行が破綻した。98年、長期資金を供給する銀行として特別な地位にあった日本長期信用銀行や日本債券信用銀行が破綻した。その他、中小の銀行、証券会社、生命保険会社、損害保険会社の破綻が相次いだ。
護送船団方式によって守られていたはずの金融機関が次々に破綻したのは何故か。直接的には1980年代後半のバブルが崩壊したことにあるが、そのバブルの原因を作ったのは金融機関自身だった。
1984年の日米英ドル委員会によって金融自由化がスケジュール化された。金融機関は護送船団方式に慣れ、それと表裏一体の規制による保護にも慣れていた。このため、先を見通す目がなく、質的な競争を行おうともせず、「自由化=競争だ」というので、量の競争に走った。銀行の場合、土地という担保さえあればいくらでも貸した。株式投資のための資金も提供した。
1980年代の後半、金融機能とは何か、その議論が始まっていた。アメリカを中心に海外の金融機関は金融機能の質を高める競争に入ろうとしていた。これに対して日本は、質ではなく量こそ最大の武器だと信じていた。
1988年、銀行に対する国際的な規制(バーゼル規制=自己資本比率規制)が導入された。その目的が日本潰しにあり、その罠に日本がまんまと掛かってたとされるものの、遅かれ早かれ日本の銀行の量的拡大が限界に達することは明らかだった。
ここからの教訓はいくつもある。
本質的には、護送船団方式が経済活動を歪めることである。その他、質の競争を回避する社会が行き詰まること、先を読んだ企業経営が求められること、日本の行政だけでなく世界を見ておく必要があることも指摘できよう。
28日、日銀は10年物国債金利の上昇を実質的に容認した。つまり、10年国債金利を実勢よりも低く抑えてきた政策を転換し、市場実勢に委ねた。日銀は当面、10年物国債金利を1.0%以下に留めるとするが、市場関係者によると、市場実勢はそれに届かないようだ。
ここで思うのは、これまでの日銀が10年物国債金利をゼロ%程度で推移するように操作してきた金融政策とは何だったのかである。日本の大企業、中小企業にとって金融の護送船団方式だったのではないのか。日本政府も予算をばらまき、企業や家計に対して護送船団方式を採用してきた。
もちろん、緊急時に金融政策や財政を活用し、日本経済を守る必要性を否定するものではない。しかし、1990年代後半の金融機関の破綻に端を発した財施と金融政策の護送船団方式は20年間以上も続き、その間に日本の競争力を著しく削いでしまった。
護送船団方式により、本来は退場すべき企業、いわゆるゾンビ企業が生き延びている。ゾンビには質的な革新や生産性の向上が何も見られず、かえって競争力を高められるはずの企業の足を引っ張っている。
労働力も同様に護送船団方式である。「中小企業が・・」という理由で最低賃金の上昇が抑えられてきたため、日本の賃金水準が国際的に見て低位になった。かつて海外に工場を展開した日本企業の工場が、安い日本に帰ってくるのではないか。韓国の企業が日本を目指すかもしれない。いずれにしても、日本企業は国内の安い人件費に頼ればよかったわけで、生産やサービス提供の革新に力を注がなかった。
28日、日銀は護送船団方式から一歩離れたようである。最低賃金も今年は4.3%上がり、やはり護送船団方式から一歩離れようとしている。今後、これらの政策転換の兆しが本物になり、日本企業を質的競争に導くことができるのか。注目したい。

2023/07/30


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