先日、中央分水嶺高島トレイルを歩いた時、小浜側から木地山峠に上がった。木地山峠はマイナーな峠ながら、付近には小浜と琵琶湖、とくに琵琶湖川の朽木とを結ぶ峠がいくつもある。現在は鯖街道として名が知られる。では鯖を運ぶだけのために街道があったのか。
今の小浜は人口3万に満たない小さな市だが、かつては若狭国の中心だった。もっとも昔の若狭の中心は今の海岸沿いの小浜ではなく、僕がタクシーに乗った遠敷(おにゅう)付近だったようだ。そこに国分寺(今は跡)があり、遠敷川に沿って若狭一宮(若狭姫神社と若狭彦神社、つまり男女の神社)がある。
小浜からの街道は、すでに書いたように、近江今津もしくは朽木に出る若狭街道と、朽木の西側を通って鞍馬に出る針畑越(根来坂、ねごりざか)があり、さらに西には雲ヶ畑街道、周山街道があったようだ(Wikiの鯖街道による)。
つまり京都と若狭が密接だったとわかる。ちなみに東大寺の「お水取り」に関して、遠敷川沿いの神宮寺では井戸の水を汲み、「お水送り」が行われる。「お水送り」の水、すなわち香水は「鵜の瀬」で遠敷川に注がれ、地下水となり、10日かけて東大寺に届くそうだ。と、書いてある。
若狭からの街道のうち、遠敷川を遡り根来を越える針畑越・鞍馬街道を歩けば、京都や奈良まで最短距離である。日本海からの魚や昆布をはじめとする物資はもちろん、大陸から渡ってくる文化も街道によって運ばれたのだろう。
そんな文化と文明の拠点だった小浜と街道だったから、間道も当然ある。その間道の1つが木地山峠を越えていた。木地山と言うくらいだから、木材資源があり、それを木地師が轆轤で生活用品に加工し、京都はもちろん、若狭や近江に供給していたのだろう。
では根来の役割はどうなのか。調べると、上根来の村人は根来坂を越えるための強力的な役割を果たしていたようだ。木地山の生活用品も、一部は上根来に送られ、各地に流れたと推察される。
その木地山峠へと上根来から歩いてみると、木地山側もそうだが、かつて通行量が多かった痕跡として、尾根付近の道は整備されている。しかし沢沿いの箇所は雨水で崩れやすい。そのため峠の両側の道が通行不可能寸前になっているのは寂しいかぎりである。
写真は広峰神社から見た上根来である。
2023/10/06