川北英隆のブログ

若狭湾を考える

先週歩いた青葉山の副産物として、小浜線の準完全走破があった。松尾寺駅と次の青郷駅の間は電車に乗らなかったが、自分の足で歩いたわけだし、2つの駅を乗降で利用したことだし、しかも純粋の「鉄ちゃん」でないから、走破したことにしておこう。
これで若狭湾は宮津と舞鶴の間を除き、鉄道を使って移動したことになる。いつか機会を造り、丹後鉄道宮津線に乗れば、若狭湾完全走破である。
加えて今回、舞鶴のことも少し分かった。舞鶴は若狭湾の中にあり、さらに一段と奥まった湾を形成している。このため軍港として利用された。これは地図を見れば理解できる。しかし、舞鶴が西舞鶴と東舞鶴の2つの町で形成されている理由は調べないと分からない。
Wikiによると、西舞鶴は古くからの城下町だった。元の地名は田辺だったそうで、地形図には「田辺」と書かれている。とはいえ、田辺はどこにでもある地名で紛らわしい。そこで、城の形が鶴に似ていることをもって、舞鶴と改称したとのこと。
明治に入り舞鶴湾の東が軍港となり、これによって東舞鶴が形成された。重要な港になったため、周辺の人口が増え、産業も発展し、西と東は舞鶴市、東舞鶴市となった。さらに1943年に両市が合併して今の舞鶴市ができたとある。西と東は山を挟んで6キロほど離れているのに、1つの市とは不思議なと思っていたが、その謎が解けた。
1959年の舞鶴の人口は10万人を超えている。当時としては大きな市である。しかし軍港としての舞鶴は自衛隊が引き継いだものの、平和憲法の下では発展しない。他の産業も日本海側では立地的に不利である。結果、1980年代の半ば以降、舞鶴の人口は減少に転じた。
舞鶴と同じ傾向が小浜線全体に言える。海が綺麗なのは、産業が早い段階で衰退したからだろう。
かつて、京都の日本海側の玄関口だった小浜の町を今回、久しぶりに通った。「小浜で釣だ」というので父親の車で出掛けたのは高校時代だったか。50年以上前のことである。今回乗った電車の少し後ろに座っていたバアさんが、同行者相手に、「小浜に泊まりたいとは思わないなあ、小京都という雰囲気も少ないし、何もないもん」と喋っていた。確かに、車窓からの町並みはうらぶれた感じ漂っていた。いずれ確かめないといけないが。
若狭湾の町で小ざっぱりしているのは、高浜、大飯、美浜である。いずれも、皮肉なことに原子力発電のおかげである。
これに敦賀を加えるべきだろうが、その敦賀は新幹線の開通を直前に控え、駅周辺が様変わりしている。その新幹線はいずれ小浜経由で京都に向かうそうだ。僕が生きているうちに完成するのかどうかは怪しいが。
そこで適当に書いておく。延伸計画が、敦賀から京都への最短コース、琵琶湖の西側を選ばなかったのは、やはり原発を意識して地元住民に媚びるためか。それとも純粋に若狭湾周辺の発展を促そうとの深慮遠謀なのか。
魚の美味い若狭を、少なくとも東京圏によって奪われたくないなと、個人的には思っている。
写真は青葉山西峰からの高浜発電所である。
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2023/10/29


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