川北英隆のブログ

足尾を考える

足尾は別子と並び、銅山として日本経済の近代化を支えた。足尾は古河、別子は住友が採掘を担った。その歴史を語るには知識が不足しているものの、両方とも近くを訪ねた。
別子は新居浜の住友化学の工場を訪ねた後、別子銅山記念館に入った。通産省(今の経産省)として訪問したから、それなりの対応をしてもらえた。
別子も足尾も、銅の精練過程で公害事件が発生した。別子は四阪島、足尾は渡良瀬川が有名である。銅鉱石は硫黄との化合物だから、精錬すると硫酸系の有害物質が出る。
今回、足尾方面を訪問したのは3回目だった。記録によると、最初は1981年、皇海(すかい)山を目指し、足尾の1つ手前、当時の足尾線の通洞駅で降り、帰りはさらに1つ手前、原向駅から乗った。2回目は1987年、袈裟丸山を目指した時だった。行きは大間々からタクシー、帰りは原向のさらに1つ手前、沢入(そうり)から乗った。
これらからすると、足尾銅山まで本当に行ったのは1981年のみとなる。当時の足尾がどんな様子だったのかは記憶に薄い。やはり記録によると、アプローチのため、通洞からタクシーを使っている。今は間藤駅の上にタクシー会社があるらしいのだが、通洞にはない。当時、タクシーを予約し、駅に呼んだのだろうか。
というのも通洞も足尾も間藤も、車窓から見るかぎり、放置された住居、社宅、工場が目立つから。小さな神社の鳥居もあるのだが、もはや誰も世話をしていない雰囲気だった。
観光客もたまにはいるらしい。今回の帰りの列車では中国人が数人、日本人のガイドに連れられて列車に乗り、途中駅(確か沢入)で降りた。運転手兼車掌が、「暗くなるとシカが出るので」と注意していた。
銅山のために敷かれた足尾線は、それまで精錬した銅の運搬に使われていた粕尾峠越えのルートを駆逐した。戦前に国鉄になったものの、1973年の閉山の影響が大きく、1989年にJRとして廃線、わたらせ渓谷鉄道が引き継いだ。ただし、間藤から先、足尾本山までの間は貨物線として運行されていたため、現在は完全に廃線となっている。銅鉱が産出しないのだから仕方ない。
駅には時間帯によっては駅員がいるのだろう。朝の足尾駅にはいたが、夕方の間藤駅は無人だった。切符は行きの桐生駅では買えたが、間藤駅では買えない。ほぼ観光のみの足尾線となり、その観光客も多くはない。地方線に多いはずの学生の姿も少数に過ぎなかった。
石炭ほどではないにせよ、銅山も日本経済を支え、足尾は古河財閥、別子は住友財閥を育てた。それも今は昔と、産業の栄枯盛衰を足尾や別子が物語ってくれる。
「創業時の部門を守る」「今の雇用を守る」との意気込みを、歴史ある企業から聞くことがある。しかし足尾を目にすると、意気込みだけで企業が成り立つのかと問いたくなる。
経済政策も同様である。経済活動には新陳代謝が必須である。新陳代謝できなければ、業界や企業は土台ごと腐っていくだろう。足尾を日本の文明遺産として後世に残せば、掘り尽くされた銅鉱石も浮かばれるだろうに。
写真は粕尾峠近くの地蔵岳手前のお地蔵さんである。かつて鉱山関係の人が歩いたのか。地図を見ると、かつての粕尾峠はこのお地蔵さんの祀られる峠だったのかもとも思う。
20231107地蔵岳手前の峠の地蔵.jpg

2023/11/07


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